撫子奏


本編-撫子思量

私がナデシコを知ったのは、知人のアニメFanからであった。

その時は、丁度TV版ナデシコが放映されていた時期であったので、その話題ばかりやっていたのだ。
しかし、私は何の興味も抱かなかった。

そのまま月日が流れて...平成9年2月、本屋でComic版の一巻を見つけた。「暇やから、読んでみるか...」と、Comic版を読んだのである。
「これ、おもろい!」...これで、私はナデシコに興味を持った。(笑)

何と言ってもComic版ナデシコは、迫力のある画、生き生きとした人間描写、魅力溢れるキャラクター達、そして力強い物語があった。私は、こう言う話が大好きである。
そんな私からすると、TV版ナデシコは「微温湯」「TV版ナデシコはComic版ナデシコと比べて話に迫力がない」と常々感じていた。しかし、私は理屈抜きで面白いから、Comic版同様TV版ナデシコも好きなのである。

ナデシコのComic/TV版に共通する魅力は、速く軽快なリズムでありながら、その中に独特の爽快感があるところである。これにより、ナデシコは、非常に洗練された、力強いモノになったのである。

はっきり言って、エヴァンゲリオン以降、どのアニメーションも「EVAの影」に取り憑かれていたと思う。
「変に理屈ばかりで、物語は二の次」であり、それに伴い、アニメFanも閉鎖的で、理屈っぽくなっていった。そんな時期に、ナデシコは「理屈抜きの娯楽」を提供した。

この物語の主人公はアキトとユリカである。この二人の存在もナデシコの魅力である。

アキトを一言で表現すると「雨」だ。人を「美しく咲かせる」のも、「儚く枯れさせる」のも、「雨」次第なのである。しかも、アキトは「雨」であるゆえに、人よりも繊細であり、難事は全て自分で背負い込んでしまう。こういうアキトには、最高の理解者であるユリカが必要となってくるのだ。

ユリカを一言で表現すると「真紅の薔薇」だ。ユリカは人のストレスを発散させる術を知っている。一見、華麗で華奢。しかし芯は強い。しかし、ユリカも難事は自分で背負い込んでしまう。ここで精神的支柱であるアキトが必要となってくる。

つまり、アキトとユリカのどちらかが欠けてもならない。ナデシコの主人公は、飽く迄も「アキトとユリカ」であり、アキトとユリカが、物語の始まりにして終わりなのである。


しかし、平成10年夏に公開された劇場版ナデシコは、Comic/TV版にあったナデシコの魅力は全て消え失せた。
何ということもない、「只の美少女戦艦メロドラマ」と成り下がってしまったのだ。

この話でのアキトは、ユリカを救うために、悪鬼と化していた。結果としてユリカは連れ戻すことは出来たが、ユリカを救うことは出来なかった。

劇場版のLast、アキトがユリカの元から去っていったのは、「俺はユリカを救いたかったが、救えなかった。俺はもう戻ってこない。俺のことはもう忘れるんだ。」という彼の悲痛のメッセージであろう。確かにアキトを救い出せるのはユリカしかいない。アキトはユリカを愛しているがゆえに、一生、苦しみ続けると思う。
しかし、是ではお話にならない。

また、ユリカはアキトを忘れることは出来ない。確かにユリカは天才だ。アキトがいなくとも、ユリカは「天才女艦長」であっただろう。しかし、ユリカが「名艦長」だったのは、「雨」の様にユリカを理解できるアキトがいるからである。ユリカを救うことが出来るのはアキトだけだ。
しかし、是ではお話にならない。

確かに劇場版は、「もし、アキトとユリカが結婚して、下らない事件で二人が引き裂かれてしまったならば...」というIFを我々にいや!というほど見せつけたのであるが...

でも、何か可笑しい。この話は、一見、悲劇なのであるが、悲劇ではない。悲壮感が全く無いのだ。まるでキャラクターが、人形劇を演じているみたいだ。

結局、この話は「排他的ルリマニア」に拠る、「排他的ルリマニア」の為の物語にしてあるだけなのだ。しかし、劇場版の主人公であるルリにはアキトや、ユリカ程の魅力は無い。だからこそ、アキトとユリカを何としても退場させたかった。しかし退場させるのには何らかの理由が必要である。ゆえにあのような設定にしたのだと私は考える。

でも、そんな小細工をやっても、ルリにナデシコの主人公は無理だ。残念ながら、全く華が無いし、幼稚すぎる。
ルリは脇役だからこそ、生きてくるキャラなのだ。

また、「Evaに似せれば観客数が稼げる」と言う態度で製作されたと推察する。しかし悲しいかな、Evaに似せようとしたが、いささか中途半端に過ぎた。それゆえ、あんなに面白くない作品になったのである。

その上、アキトを初めとするキャラクターが、余りにも幼稚に過ぎた。キャラの考え方が異常に単純かつ純粋すぎるのだ。

そこから出てくる物語はどうあがいても「甘ったるいだけ」である。ゆえに、ガチガチに理屈で固められた、単調かつ、訳の判らない短絡的なシナリオになってしまったが、是は当然の成り行きであろう。

実際、劇場版は「御遊戲」なのである。主人公たるルリは確かに歳はとっている。しかし、精神的成長は全く見られない。アキトは確実に精神が退化した。ユリカは完全に無視された上、全てのキャラクターは置いてあるだけで、生命感は全く無い。劇場版に於て、全てのキャラクターは只の置物に過ぎないのであろう。

こうなると、「阿呆らしい!」の一言に尽きる。こうなっては、もうお終いである。

Comic/アニメーションとは、「画」と「物語」が奏でる旋律と言える。それが破られたアニメーションは見るに値しない。

前述したナデシコの魅力...速く軽快なリズムでありながら、その中に独特の爽快感があるは、劇場版においては「悪しきマンネリズム」の名の元に切り捨てられた。

誠に残念ではあるが、私は劇場版を、以下のように結論づける。
劇場版はProfessionalの作品ではない。故に対価を払ってまで見る価値は無い。

以上の点から、私は、一人のナデシコFanとして、劇場版ナデシコを無視することにしている。

アニメーションの本分は娯楽であり、娯楽には理屈は不要である。やはり楽しいモノじゃないと駄目なのだ。
ナデシコは楽しいFestaなのだ。楽しまなくては損と言うものだ。


以上のように、私はComic/TV版ナデシコFanであり、Anti劇場版の立場である。

しかし、悲しいことに、ナデシコFanの間で、劇場版肯定派と劇場版否定派に派閥が別れてしまった。この傾向は決して健全ではない。確実に私は劇場版否定派に区分けされているであろう。

しかし、私は劇場版肯定派とも良く話をする。それはナデシコFan同士だからである。

ここで強調しておきたいのは、私は「ナデシコFan」であって、「特定キャラのFan」では無いと言う事である。私が劇場版を否定する理由は、「劇場版がおもしろくない」からである。

しかし、私は以下の様な考えを持つに至った。今回は是をもって締めくくりとする。

劇場版がナデシコの正史となってしまった以上、私はナデシコに何の未練もない。
既に、多くの良き観客はナデシコから去っていった。「沈黙せる多数派」は確実に去って行ったのだ!

この稿は、ナデシコFanである私から、「劇場版公開以降のナデシコ」に捧げるRequiemである。


後書き

私には、ナデシコのキャラクターは、劇場版の後、「この子らは、日常に帰っていくことが出来るのであろうか...?」との疑問が有ります。

ナデシコという一つの、(我々側から見た)非日常が終りを告げ、各キャラクターは日常へ帰っていく...私はそれを願っていましたし、それが人間というものでありましょう。

しかし、劇場版で「此の子達は、もう日常に帰っていくことは出来ない...」と感じました。

キャラクターは永遠に「御遊戲」の世界で漂い、自分の存在を誤魔化す...これこそ、正しく悲劇であり、むなしい事且つ滑稽であります。そんなのは見ているほうがしんどいのです。

撫子奏は、批評をするつもりで書いたのでは有りません。飽く迄も「私の主観」で書いたものです。ですが、書き終わってみれば、批評になってしまいました。

現在、ナデシコは「古典作品」になり、アニメーションの一つのスタイルを代表するものになりました。その一方、キャラクターはルリ一色となり、「ナデシコ=ルリ」という公式が成り立ってしまいました。

その表情、性格等はステロタイプ化し、もはやナデシコを伝えるものでは無くなりました。この現状は、TV版の最盛期の盛り上がりを知っている私としては、「悲しい」としか言い様がないのです。

やはり、アニメーションは娯楽であります。それとともに作品であります。私が偉そうに云う立場では有りませんが...ナデシコは物凄くセンスが高いアニメーションであっただけに、今のナデシコ関連は「ナデシコとは全く異質の空気」になってしまい、私は受け付けることは出来ません。

もはや、かつての熱気は戻ってきません。例え、ナデシコの続編が制作されても...アマチュアによる、二次制作や同人レベルの活動が高まったとしても...

時間と共にナデシコは忘れ去られるでしょう...しかし、TV版/Comic版ナデシコは確実に今後のアニメーション/Comicに引き継がれます。...私はそのことが一番嬉しく思います。

では、ナデシコの製作者様に感謝の意を表しつつ...後書きを終えます。

末筆になりましたが、撫子奏をお読みになられた皆々様、このSiteの管理人様であられる大塚さんに、心より感謝いたします。