" Kanon" side story "Nayuki's discipline time"


Last Episode:My lost love hunting your lost face


  −ぼくの失った愛を探す、君のなくした表情−

  side1:あのひの、ぼくの絶望。

 遠いあの日、ぼくは悲しみに満ちていた。
 悲しみはぼくをしばり、ぼくはいきることを失っていた。

 君はそんなぼくのかたわらで、やさしくほほえんでいた。
 たましいの抜け殻のようなぼくに、やさしくほほえんでいた。

 きみのやさしさは、ぼくを闇からみちびき、
 きみのほほえみは、ぼくの手を引いてくれた。

 それでもかなしみに穿たれたぼくのこころは闇にしばられ、
 ぼくが立ち上がることは叶わなかった。

 だからきみは、ねがってくれた。
 ぼくのきおくを、消してくれと。



  side2:闇に閉ざされた、あなたのこころ。

 闇に閉ざされた、あなたのこころ。

 いてつき、感じることを、
 信じることを失ってしまった、あなたのこころ。

 あなたのとざされたこころを開くことは、
 わたしにはできなかった。

 それでも、死へといたろうとするあなたを、
 わたしは見たくなかった。

 たとえ、わたしにこころを開いてくれなくとも、
 あなたがもう一度立ち上がり、
 笑ってくれるなら、それでよかった。

 その結果が、すべての忘却であったとしても、
 わたしはそれでかまわない。

 あなたがわすれても、
 わたしはあなたを覚えている。

 ああ、どうかねがわくば、
 あなたの傷が癒されて、あなたが本当に微笑むとき、

 わたしが、あなたの傍らにいられますように・・・・・・・


                    -Yuichi Aizawa & Nayuki Minase-
         1


 記憶の再生は、続いていた。

「俺達の・・・肩代わりをする?」
 祐一は呆然と、名雪と2人で作り出したであろう少女の姿を見つめていた。

−あなたの心を縛る、その苦しいものが、わたしには解る−
 少女は淡々と言う。

 解る?いや、考えてみれば道理の通る話だった。
 少女は祐一の心が作り出した存在、いうなれば祐一の一部。
 なら、心を縛るものの正体を、知っているのかもしれない。

「祐一の心を・・・あなたが奪うんだね」
 名雪が少女を見つめ、言う。

「なに・・・?」
「祐一の苦しみは、あのときの記憶で絶望した心があるから
……だから、心と記憶を失えばきっと祐一は元に戻る」
 名雪はその小さな拳を握っていた。
 大きな瞳は必死にあふれ出る涙を堪え、唇は自分の望みと反対のことを紡いでいた。

「祐一」
 名雪の青い大きな瞳が、祐一を捕らえて離さない。
 従姉妹の少女の純粋な思いが、祐一を捕らえて離さない。
 祐一は何も言えず、ただ名雪の言葉を待つのみ。

「祐一は、あの日のことを思い出すと、心が壊れてしまう。その日に至るときのことも、同じ」
「それは・・・」
 その通りだった。だから祐一は、幾度もあのときのことを思い出し、そして絶望に沈んだのだ。
 だからこそ、この少女は最も辛い選択をしたのだ。

「祐一の記憶と心を、消してください」
 そう言ったのだ。


         2


−私が奪っても、完全には消えない・・・いつか、思い出すときは来る−
 少女は淡々と答える。
「解ってるよ・・・それに、わたし達には『あなたを作り出した』責任がある」
 名雪はそれに答える。

「いつか、お前を迎えに来なければならないのか?」
 祐一は訊ねた。この少女は2人の手で『生まれた』というのなら、同時に彼女に責任がある。

−そうだよ・・・でも、今のあなた達にはその責任は負えない−
 胸元のペンダントを握り締め、微かに寂しげに少女は答える。
「なら、約束するよ」
 名雪は自分よりも小さなその少女を抱きしめ、言った。


「いつか祐一と前と同じように笑いあえるようになって、
 わたしの本当の気持ちを祐一に伝えられて、
祐一がわたしの気持ちを受け入れてくれる日が来たら、その時に」
−・・・来るのかな、そんな日は?−

「来るよ。きっと・・・ううん、絶対に。あなたも私の一部なら、私の気持ちは解るはずだよ?」
−解ってる・・・誰よりも−

「再会の日は、夏が良いね。
 その日、私たちは仲の良い親子として、この街で過ごすの。
 私たちがあなたのパパとママになって。
 私がご飯を作って、三人で一緒に寝て、一緒に笑いあう・・・そんな日を待っていて。
 あなたが過ごす事の出来なかった時間を、私たちがあげるから」
−・・・信じていいの?−
「うん、もちろんだよ」

「名雪・・・お前・・・」
 そして祐一は、このとき初めて名雪の気持ちに気がついたのだ。
 傍らにいつもいてくれた少女の、真の気持ちを。

「それまで、あなたは一人ぼっちかもしれない・・・私たちを恨むかもしれない」
 そこまで言って、名雪は言葉を止める。

「でも、絶対この約束を果たすよ、あなたの望みを私が叶えてあげるために」
−望み・・・あなたの言った夢の日・・・私が生きられなかったあの日
・・・そして・・・・・・私を解放して−
「うん・・・そうだね、約束するよ」
 重なり合う、名雪と少女の瞳。

−ならば、我らとも約束しろ−
 少女の周りにいた男の意志を持つ光が、名雪の側に寄り添った。
−私たちの、願いは−
 女の意識が答える。だが、名雪の耳元でささやかれた声は、祐一には聞こえない。

「そんな・・・!?」
 そして名雪は、恐怖とも絶望ともつかない表情でその言葉を聞いていた。
−ならば、願いは叶わぬ。ここで仲良く雪の一滴になれ−
 男の意識が突き放すように言った。

「待って・・・そんな、解った、解ったよ・・・でも、それは『私だけ』!!
祐一は・・・巻き込まないで・・・」

−・・・・・・−
 そんな名雪を心配するように、少女が上目遣いで名雪を見上げる。

「・・・そうだね、『かつてひとであったもの』だよね。あなたは」
 その少女の瞳に、名雪は表情を緩めて答えた。

−セネカ−

「?」

−名前・・・かつて私が人だった頃、私はセネカと呼ばれていた−

「そうだね、解ったよセネカ。約束する・・・私の願いが叶ったときは・・・あなたを・・・」
 最後の言葉は、祐一には届かなかった。

 ただ、どこまでも一途な名雪を見つめるだけで・・・
 その先の覚悟を聞くことは出来なかった・・・



−・・・・−
 セネカと名乗った少女は、祐一の額にそっと口付けた。
「う・・・」
 同時に、強烈な睡魔が祐一を襲う。

 意識を保てなくなる。意識が引きずられていくような感覚。
 否、それは事実なのだろう。
 記憶と魂の一部を吸収しているのだ。
 その証拠に、心を満たしていた絶望が消えていく。
 雪の景色も、名雪の姿も、「あいつ」の姿も・・・・・・

−これであなたは、この冬に起こったことを、辛いことも、楽しかったことも、全て忘れる。
 でも、これで立ち上がれるようになる。そしていつか・・・−
 意識が遠のいていく。
 名雪の顔も、セネカの言葉も聞こえなくなってゆく。

−そして、これはおまけ−
 名雪の額に口付けるセネカ。
「セネカ・・・?」
 祐一と同じように、崩れ落ちる名雪。

−あなたは優しいから、セネカのことを覚えていると、きっと仲直りできない−
「でも・・・」
−いいんだよ、それを叶えるときが来たら、あの人は悲しむから・・・
 でも、思い出しても・・・どうか、あなたの願いが叶うように・・・
 あなたが、ううん『名雪ママ』が苦しむ姿は見たくないから・・・・・・−


 祐一はその後のことは覚えていなかった。
 気がついたら秋子と一緒に、帰りの列車の中にいた。

 この街の記憶と、名雪やあゆの記憶を全て忘れて・・・


         3


 そして、2人は目覚めた。

 空は夜の帳が落ち、世界は闇に満たされていた。
 崩れ落ちた壁から伝わるわずかな月明かりが彼らを照らし、
 その微かな光の中で、名雪とセネカは向かい合っていた。

 何か、奇妙な雰囲気に包まれていた。
 それは強いて言うなら『無』の世界。

 夜の森に響く筈であろう虫達の声も、梟の鳴き声も、
 風の流れすらも止まり、彼らの周りは無に満たされていた。

「祐一」
 名雪は振り返り、祐一を見つめる。
 いつもと変わらない、屈託の無い笑顔。
 だが、祐一にはわかった。

 こいつは、何か大きなことを背負っている。
 そして、覚悟を決めている。

 何よりその瞳が、雄弁に語っていた。

「なにを、するつもりなんだ?」
 止めねばならない。そう思った。

 名雪は「全てが壊れてしまう」といったではないか。
 それは今の2人の関係なのか、それとも・・・

「ごめん、約束してたんだ・・・セネカちゃんと・・・『本当の両親』と」
「なんだと・・・・?」
 絶望の予感が祐一の中を駆け巡る。最後の約束とは一体何だと言うのだろう?

「セネカちゃんの魂を・・・救済すること」
 名雪はセネカをあの時のように抱きしめ、淡々と言う。

「救済するだと・・・?」
 すでに死んだ存在であるセネカ。
 その魂を救済する・・・即ち『あるべき姿』へと変えること。

「でも、そのためには私が必要なの・・・私の『体』が」
「名雪・・・まさかおまえ・・・」
 体を引き換えとした所業。
 それは即ち、名雪の犠牲が必要であるということ。

「祐一・・・立ち直ってくれたよね」
 遠く、はるか彼方を名雪は見つめる。

「祐一は優しくて、強いから。
 だから、私の思い出があれば、生きていける筈だから・・・
 祐一と最後まで歩けないのは残念だけど・・・思い出があるから、いいよね。
 これが、私のディシプリンだよ・・・・・・」
 瞳に輝くものを浮かべながら、名雪はセネカを抱きしめる。

「名雪!止せ!!」
 名雪とセネカの体が輝きに満たされる。
「ぐっ!?」
 そして祐一の体は、不可視の力で組み伏せられたように動かない。

−約束を果たすときが来た−
 あの時と同じ男の意志を宿す光が現れる。

−あなたに手を出さないのも約束のうち・・・−
 そして女の意志もまた現れる。

−さようなら−

 最後に聞こえたのはその声。

「名雪ぃぃぃぃぃぃぃ!!」
 叫ぶ祐一は、教会の外へとはじき出される。

−ごぉぉぉぉぉぉ!!−

 刹那、教会が炎に包まれる。
 それはさながら巨大な炎の柱に包まれたかのように。

 闇夜の世界を赤く染めて、炎が猛り狂っていた・・・・


         4


「祐一さん!」
「祐一君!」
「相沢さん!?」
 祐一の心を現実に引き戻したのは、後ろから聞こえてきた三つの声だった。
「秋子さん・・・あゆ、遠野?」
 祐一はあちこち痛む体を引きずるように立ち上がり、燃え盛る教会を見つめる。

「一体何があったのです?」
 三人の後ろから聞きなれない女性の声が聞こえた。
「はじめまして、佐倉芹香と申します・・・相沢、祐一さんですね」
 なるほど、この人がそうなのか、と納得して祐一は立ち上がる。
「ええ・・・話はあゆから聞きました」


「祐一さん、これは・・・?」
 秋子が燃え盛る教会と祐一を交互に見つめながら訊ねた。
「俺にもわかりません・・・だが、行かなくちゃならない。『手遅れ』になる前に」
 一歩教会へと祐一は足を踏み出す。

「祐一さん!?」
 慌てて秋子が祐一の腕を掴む。
「名雪が、あの中にいます・・・セネカとの約束を果たすために」
 秋子の腕を振り解き、祐一は言う。
「セネカ・・・あの子がいるのですか?」
 芹香が祐一に訊ねてくる。

「ええ・・・セネカは『救済されることを望んでいる』といいました。
 そして名雪は、そのための犠牲になろうとしている」
「そんな・・・」
 秋子が両手を頬に当てたまま青ざめる。無理も無いだろう。
 娘の死を宣告されたに等しいのだ。

「で、でも、一体どうして?瀬音香さんが縛られているって?それに名雪さんが犠牲になるって?」
 あゆがわけも解らず訊いてくる。
「多分、それは俺達には関係の無いことなんだろう。
 ただ名雪は、いや俺達はそれに巻き込まれた。そのために・・・」
 名雪が消え去るかもしれない、という言葉を言わずともあゆには解った。

「そんな・・・」
「それでも、そんなことは俺がさせない」
 祐一は再び、教会へと向き直った。


「祐一さん・・・」
 そんな俺に、秋子はいつにない真摯な瞳を祐一に向けた。
「行けばあなたも、ただではすまないかもしれませんよ」
 行く手を阻むように立ちふさがり、紫の瞳が祐一を捉える。
「それでも、行くのですか?」

 祐一は頷いた。
「8年前のあの日、名雪は全てを失って俺を助けてくれました。
 立ち上がることすら出来なかった俺を、助けてくれた。
 俺が名雪のことすら忘れてしまうことも厭わずに・・・俺はそんな名雪が好きです!
 どこまでも守ってやると誓った!!もう二度と、あいつに辛い思いはさせない!!!」
 祐一の言葉と視線に、秋子は静かに道を開く。

「・・・お願いします」
 秋子は祐一を見ず、うつむいたまま言う。
 その口調に微かに嗚咽が混じっていたのは、祐一の気のせいではなかったろう。


「祐一君」
 そんな祐一に、あゆが声をかけた。
 あの冬のように、小指を差し出しながら。
「あゆ?」
「ゆびきり」
「ゆびきり?」

「そうだよ、ボクは祐一君を止めようとは思わない。でも、これだけは約束して」
「約束・・・」
 反芻する祐一に、あゆは言う。
「必ず帰ってくるって。名雪さんと二人で・・・かえって、きて」
 俯くあゆの体は、小さく、そして儚く見えた。
 あゆの足元に、零れ落ちる一粒の雫。

「解ってる」
 あゆの小さな肩に手を置いて、祐一は答えた。
「祐一君・・・」
 あゆの手をとり、小指を絡めた。
「解ってるさ・・・『置いていかれるものの辛さ』は良く解っている」
 あゆの頭をそっと撫で、祐一は赤く染まる教会に視線を向けた。


「相沢さん」
 美凪が祐一を見つめながら言ってくる。
「遠野?」
 微かに逡巡してから、美凪は口を開いた。

「信じてあげてください、あの子を」
「セネカを?」
 こくり、と美凪は頷く。
「あの子が何か大きなものを抱えていることは解っていました。
 そして、あなた達に再会したときに私はセネカさんをあなた達の娘だと言いました」
 あの時はふざけているのか、たちの悪い冗談だと思った。
 だが、真実は違っていた。
「解っていたのか?セネカが『俺達から作られた』ことを」
「なんとなくは・・・そして、セネカさんを縛る『何か』を」
 燃え盛る教会を瞳に映し、美凪は言う。
 美凪には解っていた。祐一と名雪、そしてセネカの間にある何かを。

「それが・・・俺達か」
 美凪は首を横に振る。
「あなた達でもあり、また違う何かなのかもしれません。
 ですが、これだけはいえます。セネカさんはあなた達であること。
 大切な人をどこまでも追って助けようとした、名雪さんの心が生きていること」

「でもそんな気持ちを踏みにじった、俺の臆病さも生きているがな」
 微かに自嘲気味に笑いながら、祐一は答えた。

「なら相沢さん、あなたには義務があります」
 いつになく真摯な瞳で、美凪が言う。
「義務?」
「はい、あなたが自分の臆病さをセネカさんの中においてきたのなら…
 あなたにはそれを拾う義務があります」

「義務・・・じゃないな、それは。そうとは思いたくない」
 美凪の瞳を見つめ返し、祐一は言った。
「それは俺の望みだ。あの日名雪を傷つけた、俺の臆病さに決着をつけること。
 そして名雪を助けること・・・それが、俺のディシプリンだ」
 向かい合う、茶色と灰色の瞳。

「御武運を・・・」
 やがて美凪が道を開け、祐一を閉ざすものは消えた。

「さて・・・」
 すう、と大きく息を吸い込む。

 吸い込む息と共に、過去と現在の、そして2人が望んだ未来の姿が浮かぶ。
 迷いなど無い。

「行くぞ!待ってろ名雪!!」

 祐一は地面を蹴って駆け出す。
 ただただ、名雪のことを想いながら・・・・・・


         5


「なにっ!?」
 入るや否や、炎がなめるように襲いかかってくる。
 それらは血に飢えた獣のように猛り狂い、閉ざされた空間で暴れまくる。
「ぐあっ・・・!?」
 祐一がひるむ。頬を撫でる炎に、強烈な死の予感が祐一の心を走り抜ける。

 やられる!
 そう思ったときだった。

「熱く・・・ない?」
 燃え盛る炎は熱さなど感じさせず、触れようと火傷の一つすら出来ない。
 では、幻覚なのだろうか・・・?

−ずどっ!!−

 突然、爆音が響く。
 ガスボンベでも爆発したのか、鼓膜が破れそうなほどすさまじい爆音が轟いた。

−きゃあっ!!−
−うわぁぁっ!!−
 そのとき、二人の男女の声が聞こえた。
 女は胸元に赤子を抱き、男は衝撃から二人を守ろうと、盾となる。
 しかし男一人で支えられるような衝撃などではない。
 二人は跳ね飛ばされ、礼拝堂のマリア像の前に血まみれになって転がっていた。

「おいっ!しっかりしろ!!」
 祐一はたまらず駆け出し、二人の下に駆け寄る。

「なにやってんだ!!早く逃げないと・・・・・」
 女の腕を掴もうとした瞬間、祐一の腕が空を切った。霞でも掴もうとしたかのように。
「な・・・どうなっている?」

 訳もわからず混乱している祐一をよそに、血まみれの二人は必死に体を引きずる。
 やがてマリア像の前にたどり着き、小さな赤子を二人で抱きしめた。
−だめ・・・なのだな−
 男が呟く。
 その傷では生きて出られたとしても、最早死は避けられないと知っていた。
 そして祐一はこの声に聞き覚えがあった。
 忘れるはずはない。名雪と約束したという、あの男の意志の声だった。
 がっしりとした体格、短く切りそろえられた黒い髪。
 彫りの深いその面立ちは、強い意思と苦難に打ち勝つ強い精神力が見て取れた。

 だが、人には勝てぬ力というものが存在する。
 炎という強靭な力に彼は屈し、そしてその灯火すらも奪われていた。
 今は死期を悟り、愛娘へと最後の微笑を向けるだけだった。

−瀬音香・・・この子だけでも・・・−
 同じく血まみれの赤子を抱く女が、息絶え絶えに言葉を紡ぐ。
 腰まで届く長い黒髪、新雪を思い起こさせる白い肌。
 整った顔立ちは今や血に染まり、美しかったであろうその姿は見る影もない。
 それでも必死に微笑を浮かべ、胸の赤子をそっと撫でる。

−ううあ・・・う−
 赤子も、爆発の時の傷で致命傷を負っていた。
 背中を打ちつけたのか、纏っていた白い服が赤く染まっていく。
 燃え盛る炎が更にその幼い肉体を嬲っていく。

−苦しいの・・・?大丈夫、大丈夫だから・・・・−
 女は最後の力で赤子を抱きしめ、そっと歌う。

−Rock-a-bye baby, in the tree top・・・・・・−
 女は歌う、子守唄を。
 間違う筈はない。それはセネカの歌っていたあの歌。

−どうか・・・生きて・・・−
 そしてこの女も、あのときに感じた声そのもの。

「セネカ・・・なのか」
 セネカは『かつてひとであったもの』と言った。

「ならば俺が見ている光景は、過去のものだというのか・・・?」
「そうだよ、祐一」
「名雪!セネカ!?」
 祐一の真後ろに、いつの間にか二人が立っていた。

「これは、セネカが人でなくなった瞬間・・・」
 セネカが二人の男女・・・セネカの本当の父と母を見つめる。

−ああ・・・どうか−
 歌い終えた母親はセネカの左手を握り・・・

−この子だけでも・・・生き延びられますように−
 父親はセネカの右手を握り・・・

−ああ・・・う・・・−
 セネカもその手を握り返し・・・

 そして、息絶えた・・・


         6


「これが、セネカちゃんが人でなくなった理由だよ」
 ぽつり、と名雪が言った。
 つまりこれは、セネカの記憶が作り出した幻なのだろう。
 ダメージを受けなかったのも、干渉できなかったのもこれで合点がいった。
 しかし、疑問は残る。

「まて、何故だ!?ならどうして『セネカだけが遺された!?』
 あの二人と一緒に、死んだんじゃないのか?」
 死んだ理由は解る。しかしそれだけではセネカがこの世にとどまった理由にはならない。

「それは、本当のパパとママが願ったから」
 セネカが祐一を見つめ、呟く。
「本当のパパとママは、セネカがこの世界にとどまることを願った。
 でも・・・セネカの肉体は滅んだから、セネカはあのなかにとどまることしかできなかった・・・」

 赤子のセネカの胸に収められたペンダントが、光を放ちながら宙に浮く。
 それはセネカの体から光の粒子を吸い寄せ、そしてマリア像の手の上に収まった。

「それを、祐一が拾って、私が抱きしめた」
 名雪がセネカの小さな体を抱きしめながら、その光景を見つめる。

「セネカの生存を願う意識が、セネカの魂をあのペンダントに封じたってことか」
 頷くセネカ。

「なら、お前の周りにいたあの二つの光は・・・」
「そう、本当のパパとママ…の欠片。セネカの存在を願う、意識のなれの果て」
 つまり、セネカの父と母の残留思念。それがセネカに取り憑いていることになる。
「パパとママの意識は、セネカを封じてしまった。
 だから、セネカは一人ぼっち・・・どこにもいけずに、ここにいる」
 そして、セネカの体が輝く。
 否、セネカの背中に穿たれた、二つの十字架の形をした傷痕が輝いていた。
 傷痕の光がその強さを増して行く。

−セネカ・・・−
−セネカ・・・−
 やがて傷痕の光は、セネカを囲うように浮かび上がる。
 光はやがて人の形を作り出す。
 見まごうはずも無い。セネカの本当の父と母の姿だった。

−セネカを・・・生かす−
−セネカを・・・助ける・・・−
 妄執に囚われた二人の意識が、名雪の体を押さえつける。

「うっ・・・」
 羽交い絞めにされ、苦悶の声を上げる名雪。
「名雪!」
 たまらず、駆け出す祐一。

−邪魔は・・・させない−
「ぐわっ!!」
 セネカの父の放った衝撃が、再び祐一を弾き飛ばす。
 衝撃は胸にぶち当たり、肺の空気を全て吐き出すような感覚が祐一を襲った。

「名雪・・・どういうことなんだ・・・・」
 何とか起き上がり、片膝をついた祐一がやっとの思いで言葉を紡ぐ。

「これが・・・約束なんだよ。
 この二人は、セネカちゃんを私の体に入れて、復活させようとしている」
「なんだと!?」
 かつて、滅んだ存在であるセネカの両親は、セネカを復活させる道を模索した。

「セネカのパパとママは待っていたの。セネカの体になる人が現れることを。
 そのために、名雪ママと約束した・・・」
 セネカがうつむいたまま答える。
 セネカの復活、それは『他者の肉体をのっとる』ことであった。

「でも、それは叶わない。違う人の体に、違う人の魂は入らない・・・」
 それは当然だった。そんなことが出来るなら、この世は亡霊に憑依された人だらけになるはずである。

「それでも、そうすることがセネカちゃんを復活させる唯一の方法だと信じている・・・
 だから、セネカちゃんの魂を私に入れれば、この二人は・・・
 ううん、セネカちゃんを縛る呪縛は消える。『目的を果たせば、幽霊は消える』はずだから」
 つまりそれにより満足して勝手に消え去るということだった。

「無駄なことは止せ!!そんなことをしても何の解決にもならないぞ!!」
 とはいえそんなことを容認する訳には行かない。祐一の怒声がセネカの父に向けられる。

−そうとも限らない−
 セネカの父が、祐一の前に立つ。

「どういうことだ!」
 何とか祐一も立ち上がり、セネカの父を真っ向から見据えた。

−その女の、魂を砕けばどうだ?−
 にやり、とセネカの父が笑う。
「な、なんだと・・・・・?」
 つまり、名雪の魂を砕いて、代わりにセネカを名雪の肉体に入れるということだった。
 セネカの中には名雪の魂の一部がある。ならば名雪の肉体と「融合」することも可能かもしれなかった。
 つまり、セネカの両親は祐一の救済と引き換えに名雪の肉体を要求したのだ。

「うん・・・それを為すことが・・・私たちの約束だよ」
 頷く名雪。
 それが名雪がセネカの両親と交わした約束だった。しかし・・・

「そのために、おまえが犠牲になるのか!?」
 たまらず叫ぶ祐一。

「だって・・・だってしょうがないよ!!」
 涙を振りまき、名雪は叫ぶ。

「セネカちゃんは、ずっと一人ぼっちだったんだよ!?
 私が祐一と一緒にいるときも、たった一人で私たちを待ってたんだよ!」

「じゃあ・・・俺はどうなるんだよ!?
 名雪を失って、今度は俺が独りぼっちになるのかよ!?
 いつまでも一緒だって、約束したじゃないか!?
 独りぼっちになる辛さは、名雪が一番良く知っているじゃないか!!
 今度は俺に・・・それを味わえっていうのか・・・?」
 膝をつき、祐一は両手をついてうなだれる。



−邪魔だ・・・−
「なに・・・?」
 セネカの父が言うやいなや、祐一の体が金縛りにかかったように動かなくなる。
 全身が痺れ、指一本すら意識の言う事を聞こうとしない。

−あなたはもう、十分でしょう?−
 セネカの母が、それに続く。

「何が十分だ・・・俺達はこれからなんだ!」
 声を出すのも辛い。筋肉という筋肉が石に変わったかのように動かない。

−何故、あなた達が結ばれてから、1年の猶予を与えたと思うのです−
「猶予だと・・・?」
 言われて、おかしい事に気がついた。

 名雪は祐一と結ばれた、その次の夏に再会をセネカと約束した。
 だが、去年の夏は何もおきていない。1年の間が開いているのだ。

「約束したんだよ」
 黙っていた名雪が、押し殺すような声で呟く。
「名雪!?」

「約束したの。祐一と、祐一と一緒に過ごせる時間を頂戴って。祐一との思い出を作りたいって」
「何だって!?」
 では、ここに来た事は、去年に何もなかったことは、全てが予定調和のことだということになる。

−そうしてあなた達は共に時間を過ごした。それがあるなら、十分でしょう?
 私たちは幸福を得ても、それは僅かだった。あなた達はその分幸せを紡いだ−
「身勝手なことを言いやがって…………自分の不幸に他人を巻き込む気か!」
 それは、この瞬間を受け入れるための代価だとセネカの母は言っていた。

−おまえに何が、わかるというのだ−
 脳髄に直接響くような、セネカの父の声。

「ふざけるな・・・解ろうとも思わない。亡霊の戯言なんかな!!」
 全身の筋肉が引きちぎれんほどの力を祐一は込める。
 反動で余計に痛みがひどくなるが、そんなことにかまってはいられない。
 動かぬ肉体に力を込める、名雪の元へ駆け寄ろうと。

−だろうな、だが、おまえは考えたことがあるのか?
 培ったものが全て立ち消え、進むべき未来を失うものの辛さが?
 そして、目の前で子を失う、親の辛さが!!−
 セネカの父の腕が実体化し、祐一の首を掴み上げる。
「うぐぁっ!!」
 掴まれた祐一の体が宙に浮き、地面に叩きつけられる。

「祐一っ・・・やめて、私の体が欲しいならあげる!だから、祐一を傷つけないで!」
 悲痛なる名雪の叫び。

−愛したものを失い!−
 瓦礫の破片が祐一の額を傷つけ、

−愛の形を失い!−
 壁に叩きつけられる祐一が血反吐を吐き、

−だからこそ、私たちは決めたのだ!!いかなる罪を犯しても、瀬音香を助けると!!−
 祐一が糸の切れた人形のように崩れ落ちた。

−さあ、瀬音香・・・−
 セネカの母がセネカの体を抱きしめ、動かない名雪に向かい合わせる。

「ダメ・・・」
 背中を押す母の手を押し返し、セネカが母と向かい合う。
「セネカ・・・ちゃん?」
 呆然と名雪はその光景を見つめかえす。

「だめ、絶対にダメ!!それは、名雪ママの願いじゃない!!」
 髪を振りまき、涙を浮かべ、叫ぶセネカ。

−私たちの願いは、あなたが生きてくれること−
 恐るべき力で、母はセネカを押さえつける。
 その瞳は狂気にゆがみ、ヒトの精神などとうに消え去っていることを容易に理解させた。
 瞳が鬼夜叉のごとく金色に輝く。
 髪の毛が鬼の角のごとく逆立つ。
 唇は猛禽のように裂け、憎悪と渇望に満ちた悪鬼のごとき姿。
 セネカの母はセネカの両腕を握り、名雪へと一歩、また一歩と歩み始める。

「やめて!ママ!名雪ママと祐一パパを、傷つけないで!!」
 セネカが必死で抵抗の声を上げる。
 しかし母はその言葉など意に介さず、ひたすらに力を込める。
「うっ・・・・・・あああっ!!」
 セネカの細い腕が潰されそうなほどの力が込められる。
 セネカの母の爪がセネカの柔肌に突き刺さり、セネカの白い肌が赤く染まる。

「や・・・めて・・・ママ・・・ううああっ!」
 それでもセネカの母は掴むのを止めようとしない。
 血液の流れすらも阻害された腕が青く染まり、たまらず苦悶の悲鳴をあげるセネカ。

「くそ・・・動け・・・動け!!」
 金縛りと先ほどのダメージが残る体に、必死に全身の力を込める祐一。
「やめて!!名雪ママをこれ以上傷つけるのはやめて!!」
 セネカを押さえつけたまま、セネカの母はセネカを名雪に押しやろうとする。

 どうすれば、どうすればいい。
 焦燥感が祐一の全身を駆け巡る。

−邪魔をするな−
 そんな祐一を嘲るように、セネカの父の声が響く。

 黙れ、やかましい、そんなことなどさせるか。
 俺は、俺の願いは・・・

「動けって・・・いってるだろうがぁぁぁぁぁぁ!!」
 祐一は叫んだ。全身全霊の力を込めて。
 その裂帛の気合が功を奏したのか、叫びと共に体の呪縛が消え去った。
 ひたすらに走った。
 名雪とセネカに向けて。

 だが、どうする?
 どうすれば、二人を救える?
 そんな時、不意に先ほどの美凪の言葉が浮かんだ。

−あなたには、それを拾う義務があります−

−拾う・・・何をだ?それは、俺達がセネカの中に入れた心だ。
 俺の心と、名雪の心、そして瀬音香の魂が今のセネカを形成している。ならば・・・・・・?−

 そして、祐一は自分がまったく予想だにしなかった言葉を叫んでいた。
 だが、それは『2人にとって正しいこと』であることだけはわかった。
 だから祐一は、叫んだ。

「セネカ!戻れ『俺達の中に!!』」


         7


 時が、止まっていた。

 燃え盛る炎は凍てついたようにその動きを止め、
 崩れ落ちる瓦礫は空に浮いたまま止まり、
 荒れ狂う灼熱の大気は収まり、凪のような静けさをもたらしていた。

−なにを・・・した?−
 セネカの父が、呆然とした顔で祐一に問う。
 セネカの体が輝き、その中から『何か』が抜け出てゆく。
 青く輝く粒子と、茶色に輝く光の粒子。

「『セネカの中の俺達』だ。
 忘れたか?・・・今のセネカは、あんた達の瀬音香じゃない。
 言うなれば、相沢・水瀬・セネカ。
 俺と名雪の記憶と魂の一部と、瀬音香の魂の融合体。俺達の意志が生み出した、別の存在」
 我ながら無茶なことを思いついた、と祐一は思う。

 かつてセネカたち一家は、この場所で死んだ。
 セネカの両親のセネカを死なせたくない意志は、セネカの魂をペンダントに封じ込めた。
 セネカの魂に取り憑き、いつか復活させようとして。

 そこに祐一と名雪がやってきた。
 セネカは祐一と名雪の意志で定義され、分離した精神と記憶から生まれた。
 つまり、2人が『セネカの姿を作り』、分離した魂がセネカの意識となった。

 なら、それを『2人に回帰』させればどうなる?
 未熟なセネカの本来の魂は、それを維持できない。
 セネカは力を失い、『あるべき姿に還る』
 当然、その意識をセネカに依存していたセネカの両親もまた然りである。
 それにセネカを縛ったのはセネカの両親だけではない。

 いや、むしろ祐一と名雪なのだ。

 あのまま誰にもセネカのペンダントが発見されずにいたとする。
 幽霊とて万能ではない。
 やがてその意識を保つことが出来ず、彼らも消えていた。
 そうすればセネカも両親も『消滅』出来ていた。

 ところが、2人がセネカの存在を『定義』してしまった。
 さらに魂の一部をセネカに与えてしまった。
 これによりセネカは消えなくなった。
 2人に定義される前のセネカは、瀬音香の魂とその両親の呪詛が合わさって出来ていた。
 そのためにセネカの両親がかけた呪詛も強固にしてしまったのだ。

 つまり、セネカは両親と祐一と名雪に縛られていたのだ。
 そして今、祐一と名雪の鎖が消えていた。

「祐一・・・これは?」
 名雪も体の自由を取り戻したのか、祐一に駆け寄ってくる。
 祐一は大丈夫だ、と名雪の肩に手を置き、言った。
「もう止せ。あんた達はもう『終わった』んだ」
 唖然とするセネカの両親の前に立ち、祐一は言う。

−瀬音香を・・・生かす−
 セネカの母が、搾り出すように言う。
「それは、本当にセネカの願いなのか?いや『あんた達の願いなのか』?」
−・・・・・・−
 その言葉に、二人は押し黙る。
 人は沈黙と静止した空間で、己の行いを省みるという。
 二人は、少しずつ『人に戻りつつ』あった。


「もう、止めなさい。夏葉」
「?」
 背後から、聞き慣れない老婦人の声。

「芹香さん・・・あゆ、秋子さん、遠野」
 祐一が振り返った先には、芹香、あゆ、秋子、遠野が立っていた。
 セネカの力が分かたれたことで、この教会を縛る幻覚も消えたからだった。

−お母さん・・・・・−
 夏葉、それがセネカの母親の名前だった。

「夢は、終わったのですよ・・・」
 幼子を諭すように、芹香は言う。

−私は・・・・・・この子に、何もしてあげられなかった。
 母として、何も・・・この子に、幸せをあげることができなかった−
 夏葉と呼ばれたセネカの母が、両手を床につき嗚咽を漏らす。
 そこにいたのは最早、悪鬼などではなかった。
 ただただ悲しみに泣き崩れる、一人の母の姿だった。

−そうだ・・・だからこそ瀬音香の復活を願ったのだ−
 セネカの父がそれに続く。
 だが、その言葉には力はない。先程の怒気も、感じられない。

「そして、セネカを一人ぼっちにする気だったのか?」
 祐一が2人の前に立ち、言葉を紡ぐ。

−!?−
 夏葉が顔を上げ、祐一を見る。

「この世界に、父も母もいない一人ぼっちの赤ん坊を、作るつもりなのか?」
−・・・・・・−
 セネカの父が押し黙る。

「あんたたちは、幸せだったんだろう?いつまでも一緒にいられると、そう思ったんだろう?
 俺は親になったことはない。だが、大切な人を失う辛さは解る・・・」
 自分の過去を振り返り、瞳を閉じ、そして再び開く。

「答えろ、ここに『セネカ一人を残していくつもりか』?」
−・・・・・・!!−
−それは・・・−
 二人の表情が変わった。

「あなた達はセネカちゃんが本当に好きなんですよね?
 大切なんですよね?なら・・・だめですよ・・・絶対にその手を離したら」
 名雪も祐一のやろうとしていることを理解したのだろう。
 必死に涙を堪えながら言葉を紡いでいく。

−でも、私は瀬音香に何も・・・・・・−
「ううん、違うよママ。セネカは・・・ママからもらったよ。幸せを」
 泣き崩れる夏葉を抱きしめるセネカ。

−瀬音香?−
「歌ってくれたよね、あの子守唄・・・瀬音香が生まれたときから、最後まで」
 すう、と軽く息を吸い、セネカは軽やかに歌声を紡ぐ。
 セネカの記憶に残された、母の愛の証を・・・

「Rock-a-bye baby, in the tree top
When the wind blows, the cradle will rock
When the bough breaks, the cradle will fall
And down will come baby, cradle and all・・・・・・・・」

歌い終えたセネカが、名雪を見る。

「子守唄は、愛の証なんだって。セネカのもう一人のママが、教えてくれた」
−あなたが・・・−
 夏葉がすがるように名雪を見つめる。

「はい、そうです・・・セネカちゃんは、覚えていました。あなたの歌を。
 それが、あなたがセネカちゃんを誰よりも愛していた、誰よりも愛を与えた、その証です」
 頷く名雪。

「それに、祐一パパと名雪ママとほんのわずかだけど一緒にいたから・・・セネカは、もういいよ」
−瀬音香・・・・・・ごめんね、ごめんね・・・何も、理解してあげなくて−
 セネカを抱きしめ、夏葉が嗚咽を漏らす。

「もういいよ・・・・・だから、行こう?魂の、還るところへ」
−そうだな・・・−
 セネカの父が傍らで、セネカと夏葉を抱きしめる。

 それは、紛れもなく家族の姿だった・・・・・・


         *


「・・・『魂の還るところ』か」
 祐一は自らに言い聞かせるように呟いた。

 詭弁だ、と祐一は思う。
 死の先には何もありはしない。地獄や天国と呼ばれた場所すらも、今は無い。
 死の先にあるものは本当の『虚無』
 死は、自分が本当に消えることなのだから。

 それでも、と祐一は思う。
 見せかけに過ぎなくとも『魂の還るところ』は死者にとっては希望なのだ。
 死の恐怖から逃れ、消えることが出来るための。
 ならば、言ってやりたかった。

「今度こそ、そこで家族になれよ」
 と。


「行こう、パパ、ママ」
 押し黙る二人の手を握り、セネカが無邪気に微笑んだ。
 祐一と名雪が知っている、本当に無邪気な顔で。
−瀬音香・・・−
 差し出された手を、二人は握り返す。

−そうだな・・・行こう・・・−
−はい・・・あなた、瀬音香・・・−
 晴れやかに二人は笑い、そしてその姿が消えてゆく。
 絶望と渇望に満たされた、邪念が消えていく。

 本当の意味での『死』が訪れていた・・・


         8


 そして、その場に残されたのは祐一と名雪とセネカだった。秋子たちには席をはずしてもらった。
 これは『3人の問題』なのだからと……

「本当にいいの、パパ?」
 セネカの右手に握られるのは、祐一があの時捨てた心。
 絶望に満たされ、立ち上がることをやめた心だった。

「いいんだ、そうしないと、お前をまた縛ることになる」
 ぽん、とセネカの頭に手を置き、祐一は笑って答えた。

「でも、また立てなくなるかもしれないよ?」
「なら、今度こそ、私が助けてあげるよ」
 名雪がセネカの前にしゃがみこみ、セネカと視線を合わせた。

「あのときの俺は、立ち上がる勇気すらなかった・・・手を引いてくれる人がいることにすら気づかなかった。
 いや、知ろうとすらしなかった」
 祐一もセネカの側に膝をつき、答える。
「今なら、俺は倒れない。いや、倒れても立ち上がることが出来る。側に、名雪がいてくれるから」

「そうだね・・・解っているよ。セネカは『パパとママの欠片』なんだから」
 そして、左手に握られた青い光を差し出す。
「これは?」
「あのときのママだよ。誰よりもパパのことを想っていた、あのときのママの心」

「セネカ・・・ちゃん」
 セネカの小さな体を、名雪は必死に抱きしめる。
「ごめんね・・・もっと、もっとママでいたかったよ」
 滂沱の涙に顔をぬらしながら、名雪は言葉を続ける。
「ううん、ママは約束を守ってくれたよ。パパと結ばれて、そして夏の日に家族として過ごすこと・・・
 記憶は無くても、約束は守ってくれたよ・・・」
 名雪の背中を撫でながら、セネカは穏やかに笑っていた。

 セネカと過ごしたほんのわずかな時間。
 そして今の永訣の夜。
 それこそがセネカと名雪が交わした約束だった。
 家族の温もりを与えて、そして彷徨うセネカの魂を解放することが…

 満足だった、と思いたい。
 セネカは、こうして笑っているのだから。

「そろそろ、時間だね」
 やがてセネカが立ち上がり、祐一と名雪に両手を向けた。
「ああ・・・」
「うん・・・」

 セネカの手から放たれた2人の心が、あるべきところへと帰ってゆく。

「く・・・」
 祐一の心が入ったとき、祐一の中にあの日の絶望がありありと蘇った。
 血に塗れた「あいつ」の姿。
 全てを拒絶したかった絶望。
 あの冬の苦しさが、強烈にリフレインしてくる。
 それでも・・・

「祐一」
 名雪の温もりがそばにあった。
 震える祐一の手をしっかりと握り締め「大丈夫だから」と気丈に微笑む少女の姿。
「ああ・・・」
 それが、あの時とは違うこと。
 心を支える大きな強さがあること。
 差し出された名雪の手を強く握り返し、祐一は消え行くセネカを見つめる。

「よかった・・・」
 セネカの姿が光となり、そして夏の夜空へと消えていく。

「セネカ!」
「セネカちゃん!!」
 散華してゆくセネカの残滓に向けて、2人は叫ぶ。

「ねえ、一つだけ、訊いていい?」
 セネカの意識が2人に語りかける。

「うん、大丈夫!何でも訊いて!」
 涙をぬぐおうともせず、名雪が叫ぶ。

「セネカのこと、好きだった?ほんの一瞬でも家族になって過ごして、パパとママは迷惑じゃなかった?」
 微かに悲しげな響きを込めた、セネカの声。

 馬鹿野郎・・・そんなわかりきったこと、訊くんじゃねえよ・・・
 俺達の答えなんて、決まっているじゃないか・・・

 だからこそ、頷き、答えた。

「大好きだ!!」
「大好きだよ!!」
 涙を流しながら笑顔を作り、

「セネカと一緒にいられて!」
「家族になれて・・・!」
 心の底から叫びながら、

「幸せだったさ!!」
「幸せだったよ!!」
 最後には、声を重ねて。
 消え行くセネカを二人で抱きしめ、二人でセネカの頬に唇を当てる。

「ありがとう・・・いつまでも・・・・・仲良く・・・笑っていてね・・・
 私の・・・大好きな・・・もう一人のパパとママ・・・・」
 最後の意識が、届く。


 やがてセネカの姿が完全に消え去る頃、
 かちゃり、と音を立ててセネカのペンダントが、玩具のカチューシャと指輪が落ち、そして砕けた。


 セネカであった光は、はるか空の上で白い光となった。
 光は大気を冷やし、水蒸気を凝結させ、結晶となった。

「あ・・・」
 名雪が空を見つめながら、そしてかすかに驚きの声をあげる。
「セネカの・・・贈り物だな」
 それは、セネカの最後の姿、最後のセネカの心。



 雪が降っていた。
 真っ白な結晶が、視界を埋め尽くしていた。

 真夏の夜の闇の中で、それは淡く白く輝き、
 消えていった命の輝きの最後の残滓とも思えた。

 降り落ちても、決して残ることの無い真夏の雪。
 それは、人の心にも似ていた。

 降り落ちながら輝く、一瞬の煌き。
 永遠ではないもの。
 それでも、確かに存在するもの。

 2人はただただ座りながら、その輝きに心奪われる。
 それでもあの時とは違い、心の底から結ばれていると解った。



         9


 そして輝きは、2人に夢を見せた。
 セネカの魂の欠片が、2人に降り注ぎ、見せる夢。


 それは遥か遠い日。

 一組の夫婦。
 それは、生まれたばかりの娘を抱いて、笑っている。

 それは春の桜並木。
 娘を乳母車に乗せて、並木を三人で歩く。

 それは夏の海辺の街。
 全ての始まりの場所で、遠い空を眺める。

 それは秋の山。
 彩られる紅葉の中を、小さな車が走り抜ける。

 それは冬の故郷の街。
 暖かい部屋の中で、降り積もる冬の精霊を見つめ続ける。

 あのときには叶わなかった、三人の時間。
 長い時をかけて紡がれる、三人の物語。


 それは、幸せな夢を抱きながら叶わなかった、悲しい家族の夢だった。
 それは悲しい家族が、一組の男女に己の夢を託す願いだった。

         *


 そして2人もまた、セネカの欠片に夢を見せた。

 セネカが返した心の中にあった、あの冬の最後の記憶を。

 どこまでも雪が降りしきる世界。
 凍てつく風が吹き荒び、命あるもの全てを雪の中へと消し去ろうとする世界。
 その中を、一人の少年が歩いていた。
 背中には、一人の少女を背負いながら。

「・・・・・・祐一?」
 少女はうっすらと瞳を開け、自分を背負う少年を見つめる。

「生きてるか?」
 ぶっきらぼうに、少年は答える。
「うん、生きてるよ・・・祐一がいるから」
 かすかに笑い、少女が答える。

「行かなきゃな、早く」
 少年は何故、ここにこうしているのかは解らなかった。
 だが、自分の傍らで倒れていたこの少女を守らねばならないことはわかった。
 だからこそ、少年は歩く。この少女を、手放さないために。

「うん…ねえ、祐一」
「どうした?」
「いつかまた、こうして2人でいられるといいね………」

 少女は微笑み、再びまどろみの中へとおちていく。
 やがてどれほど歩いたか、紫のお下げを揺らしながら走ってくる一人の女性の姿が見えた。
 必死に娘を助けようとする、母の姿がそこにあった。

「それも……いいかもな」
「うん、お母さんと、祐一と…また、あの町で一緒に暮らしたい」
「そうだな、俺がいつか、記憶を取り戻して、それを乗り越えることができたなら、きっと……」
 少年は、何故自分がここにいるのか解らない。
 だが今、自分が生きていられるのはこの少女のおかげだということは、少年は解っていた。
「うん、それが祐一の試練なら、一緒に挑戦しよう?」
 そしていつか、記憶を取り戻さねばならないことも。
「ありが、とう……」

 少年は糸が切れたかのようにその場に倒れ伏した。
 記憶が薄れていく。
 自分が何をしていたのか、思い出せなくなってゆく。

 だが、それでも。
「いつか、思い出す……必ず」

 それは、記憶を失う前に唯一つだけあった意識の残滓の為したこと。
 少女を守り、暖かい家へと連れ帰ること。

 それは、自分をどこまでも信じてくれた、少女の想いに答えたいという最後の意思だった。
 それは、一組の男女が悲しい家族達の夢を受け継ぐという答えだった。


          10


「終わった・・・な」
「そうだね」
 雪は全てが大地へと還り、辺りには夜の闇が広がるだけだった。
 それでも東の空が群青色に輝き、曙光の到来が近いことを示していた。

「明けない夜はない、か・・・・・・」
 祐一は立ち上がり、名雪の前に背中を向けて腰を下ろす。

「祐一?」
「なんとなく、な」
 あの時は途中で倒れて、最後まで名雪を連れて行くことができなかった。
 だから、今度は最後まで背負ってあげたかった。

「そうだね…ありがとう」
 祐一の背に体を預ける名雪。少年の背中は、あの時よりずっと広く、暖かかった。
「帰ろう、俺達の家へ」
「うん」
 少年は、足を踏み出す。
 一歩、また一歩と。

 どんなディシプリンも、俺達なら越えていける。
 そんなことを思いながら…………


         *


 夢の跡、俺達は思った。

 俺達は、いつか結ばれることを願う。
 俺達の間に、命が生まれることを願う。

 多くの出来事を経て、命は育っていく。

 俺達はいつか語るのだろう。
 子供が育ち、時を共に過ごすと誓う相手を見つける頃。

 俺達が出会えた奇跡と、
 消えていった人々のことを・・・・・・


    信じあえることの出来た、俺達の奇跡を・・・・・・




                    please go to Epilogue.....

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