" Kanon" side story "Nayuki's discipline time"


Episode 1: At one time, I despaired of all things


 −かつて、すべてにぜつぼうしたものより−


 わすれたかったんだ。
 あのひぼくは、大切なものをなくしてしまった。
 たった一人の、大切な人と。
 ぼくを心配してくれた、一人の女の子を傷つけて。

 すべてが暗い闇の中へ、
 だれのすがたもみえなくなる。

 泣いていた。
 ぼくも、あのこも。
 あのこはぼくを助けたいといってくれた。

 闇の中で届いた、たったひとつのことば。
 だから、ぼくたちは願った。

 何もかもが、消えてしまいますようにと・・・・・


                  -Yuichi Aizawa-


         1


 どこまでも空は広く、果てしなく蒼い。
 肌を焦がすような陽光と、雲なき空を彩る白い無数のカモメの群れ。
 それは、青いキャンパスを彩る夏の情景だった。
 眼下には弧を描く大きな水平線。
 全ての命の源であるその広がりは、星にあまねく命を祝福するかのように輝いていた。
 こんなときでもなければ、じっくりといつまでも眺めていたいと思う世界が目の前に広がっていた。

「綺麗だねー」
 どことなく間延びした声で、相沢祐一は現実に引き戻された。
「綺麗だねー、じゃねえだろがっつ!!!」
 怒声一発、祐一のチョップが隣にいる少女の頭に撃ち込まれた。
 彼女の名は水瀬名雪。彼の従姉妹にして恋人。

「ううー・・・酷いよ祐一・・・」
 頭を抑えながらうるうると瞳を潤ませながら名雪が恨めしげに祐一を見た。
 うむ、なかなか可愛らしい・・・と祐一は思う。
「いやぁかましいわっつ!!
 誰のせいでこんなところにいるとおもっとるんじゃおまえわぁ!!!」
 が、今までのことを思い出し、祐一は二回目の怒声をぶつけた。

 そんなときだった。

「くすくす」
 笑い声が聞こえた。それは幼い少女の声。
 その声はあまりにも唐突で、まったく何の前触れもなく二人に届いていた。

「?」
 名雪も気がつき、きょろきょろとあたりを見回す。
「ここだよ」
 ガードレールの上に腰掛けて笑う、水色のワンピースの少女。
 年のころは8歳程度だろうか?
 首にはラピスラズリのペンダントを下げ、ニコニコと笑いながら、俺達を見つめている。

「名雪・・・?」
 海風に揺られる青い髪。
 悪戯っぽく笑う、茶色の瞳。

「昔の・・・祐一?」
 夢見るような大きな瞳。
 よく動く、小さな唇。

 それはまるで「かつての相手の姿」であるかのように二人の瞳に映る。
 そう、似ていたのだ。幼い頃の名雪に、そして祐一に。

「おまえは・・・・・?」
 祐一の心の中で、何かが警鐘を鳴らしていた。

−俺はこの少女を知っている?−
 記憶ではなくもっと深いところ、言うなれば「精神」や「魂」が知っていた。
 この少女の記憶は祐一の中にはなかった。しかし、確かに祐一は知っていた。

「あなたは・・・・・・?」
 名雪もまた、同じだった。

−知っている・・・私は、この子に会うために、ここに来た−
 名雪の心の中に、そんな感情が沸き起こる。
 閉ざされた記憶の向こう側、そこにはこの少女がいる。そうとさえ思えた。

 少女はそんな二人の姿を見つめながら、ただただ笑っている。
 風に吹かれてたなびく髪は、空と海の青と重なり合う。
 それはさながら、空と海の化身であるかのように。
 そしてわずかな時の後、小さな唇を動かして少女は言った。

「待っていたよ・・・パパ、ママ」
 その言葉に、祐一と名雪は呆然と立ち尽くした・・・
「なん・・・だと」
 乾く唇を必死で動かし、祐一は問う。

「だめだよ。ママを苛めたら・・・パパとママはセネカが呼んだんだから」


         2


 話は数日前にさかのぼる。

「祐一、夏休みどうしよっか?」
 講義が終わるや否や、名雪が祐一に訊いてきた。
 二人はあの冬の日から付き合い始めていた。全てのしがらみに清算をつけて。
 そして香里や北川と共に4人そろって同じ大学に進学していた。
 レベルそこそこの国立の総合大学。
 香里と北川は医学部に、名雪は体育教師になると言って教育学部に、祐一は工学部に進学していた。
 最も一年生の内は全学部対象の共通科目も多かった。
 ということで、こうして同じ講義を受けることも珍しくなかった。

「そうだな・・・まあ、ごろごろと」
 背もたれに寄りかかりながら体を伸ばし、いつもの調子で祐一が言う。
「おまえ、相変わらず老成しているよなあ」
 正面に座っていた北川が言ってきた。
「そうよねえ、若者らしさに欠けているっていうのは間違いないわよねえ」
 香里が絶妙なタイミングでそれに続く。

「大人びていると言ってくれ」
「祐一、胸を張って言うことじゃないよ」
 平和な日常だと思っていた・・・あのときまでは。



 そして二人が帰ってきてからのことだった。
「祐一君、手紙が来てるよっ!!」
 帰ってくるなりとてとてとあゆが寄ってきた。

「ただいま、居候仲間」
「祐一・・・そういう言い方はどうかと思うよ」
 名雪が苦笑混じりに突っ込む。
「うぐぅ〜、なんかいやだよ、その言い回し」
 あゆが複雑な表情で呻く。

「そうだな、ならこういうのはどうだ?
 食うばかりか秋子さんに学費まで出してもらって高校へ行こうと勉強中という無駄飯ぐらい」
「うぐぅっ!!ボクはそんなんじゃないよっ!!」
 流石にこれは怒ったらしい。

「あらあら、だめですよ。あゆちゃんは私の恩人ですから」
「そうだよ〜。祐一悪人だよ」
 どこからか現れた秋子と共に名雪が言ってくる。

 あの冬の日、二人が見たあゆは幻影だった。
 生霊とでも言ったほうが正しいのかもしれない。
 そして秋子が事故にあったあの時、あゆは自分自身に気がついた。
 そして死の淵を彷徨う秋子を助け、そしてあゆも共に帰ってきた。
 まあ、この話は別の機会にするとしよう。

「んで、どうしたうぐぅ」
「うぐぅでもないよっ!!」
 膨れ顔のあゆがつっけんどんに葉書を手渡す。
 聞きなれない住所がそこに書かれていた。


「!?」

 不意に、祐一の中に何かが見えた。

 頭痛、などという生易しいものではなかった。
 脳に直接電撃でも当てられたかのような衝撃。そして『何か』が浮かび上がる。
 脳を解剖して記憶野にショックを与えると過去の記憶が甦るという話を聞いたことがある。
 まさしくそんな感じだった。


 冬の海。
 雪の列車。

『はじめまして・・・』
 色素の薄い髪の少女。

『祐一の記憶と心を、消してください』
 それは幼い日の名雪の声。大きな悲しみに耐えながら、必死に言葉を紡ぐ姿。

『これであなたは、この冬に起こったことを、辛いことも、楽しかったことも、全て忘れる。
 でも、これで立ち上がれるようになる。そしていつか・・・』
 見たことのない少女が言葉を紡ぐ。それは名雪によく似ていた。
 だが、祐一の記憶にその少女の姿はない。
 なんだ、何だこれは!?

『いいんだよ、それを叶えるときが来たら、あの人は悲しむから・・・
 でも、思い出しても・・・どうか、あなたの願いが叶うように・・・
 あなたが、ううん『名雪ママ』が苦しむ姿は見たくないから・・・・・・』
 見たことのない少女が笑う。

 そこには名雪がいた。しかも三つ編みにした小学生の頃の名雪が。
 だが祐一はこんな名雪の姿に覚えはない。
 取り戻した記憶にも、こんなものは無い。
 脳裏に濁流のように記憶が襲い掛かってくる。
 注ぎ込まれた記憶は膨大だった。それゆえに祐一は半ば本能的に意識を閉ざす。

−・・・だめだ・・・意識が・・・保てない・・・−


「だめだよ祐一、あゆちゃんいじめたら・・・祐一!?」
「祐一君!?」
 遠くで名雪とあゆが慌てている声が聞こえる。

−なに慌ててんだよ・・・みっともない・・・−
 薄れ行く意識の中、そんなことを思う。

「お母さん、祐一が、祐一がっ!!」
「秋子さん、秋子さん!!」
「祐一さん!?しっかり、祐一さん!?」

         3


 気がつくと、祐一は自分の部屋にいた。
 見慣れた天井が映る。どうやら眠っていたらしい。
 
「手ぬぐい?」
 そして濡れた手ぬぐいが頭の上に乗っていた。
 カーテンが閉じられ、電気が点けられていた。
 いつの間に夜になったんだ?と祐一は頭を捻る。
「名雪?」
 ベッドにもたれかかるように名雪が寝息を立てていることに気がついた。

 今までの記憶を反芻してみる。
 大学で北川に老成していると言われて、
 帰ってきてあゆをからかって、手紙をもらって・・・・・・・

「手紙?」
 そこで記憶が途切れていることに祐一は気がついた。

「名雪、いるの?」
 秋子の誰何の声と共に、コンコンと祐一の部屋の扉を叩く音がした。
「寝てますから、静かにお願いしますよ」
「祐一さん?」
 微かに驚いた口調で秋子が扉を開けた。
 口調はさほど変わっていない。
 が、相当に驚いていることが解るのは付き合いの長さのせいだろう。

「もう体の方は大丈夫なのですか?」
「いや、それが・・・」
 祐一は記憶が吹っ飛んでいるのだ。どうやって答えたものかと思案する。
 そのときだった。
「うにゅ・・・祐一?」
「ん・・・すまん、起こしたか?」
 名雪が目をこすりながら起き上がってくる。
「祐一!?」
 そしてはっと目を見開き、いきなり祐一の前に顔を近づけてくる。

「おお、朝もそれくらい早けりゃ苦労せんのだが」
「冗談言ってる場合じゃないよ。祐一大丈夫?」
 名雪の顔が鼻先まで迫る。表情はいつになく真剣だ。
 流石に祐一も何かが起こったことだけは理解できた。
 それでも、思い出せない。

「・・・・・・・」
「・・・もしかして、覚えてないの?」

「ああ」
「祐一、いきなり倒れたんだよ。
 あわてて私とあゆちゃんとお母さんで運んだんだけど・・・本当に覚えてない?」
 全然記憶になかったが、言われてみるとそんな気もしていた。

「ああ・・・そうだったな」
 祐一は曖昧に言葉を濁し、枕元に目をやった。
「あれ・・・こいつは」
 さっきの葉書だった。
 流麗な字で、差出人は書かれていない。
 絵葉書で、裏にはどこかの小さな駅舎の写真があった。
 と、そこでかすかに記憶がフラッシュバックする。

「・・・・・・っつ!?」
 いきなり稲妻のように激しく頭痛が走る。
「祐一!?」
「祐一さん!?」
 よほど苦しい顔をしていたのか、名雪と秋子が心配げに顔を寄せてくる。
「い、いや、なんでもないです・・・・・」
 さっきの夢を思い出す。

 いろいろと知らない顔が出てきた気がするが、名雪の顔が出ていたことは間違いなかった。
 いつか見ていたあの冬のものではない。
 もっと別の場所だった。
−俺と名雪は悲劇の冬以降、7年間会っていなかった筈。それとも俺はまだ何か忘れているのか?−
 そんな考えが頭に浮かんだ。

「無理はしないでくださいね。名雪、あなたも早くおやすみなさい。あなたまで倒れたら大変よ」
「うん、解ってる」
 安心したのか秋子が去っていく。後には名雪と祐一だけが残された。

「なあ、名雪」
「どうしたの?」
 かすかに逡巡してから、祐一は言った。
「俺達って・・・この街以外で会ったことってあったか?」
「うーん・・・特に無いと思うけど?」
 しばし考えてから、名雪が答えた。
「そうか・・・」
 だが、あれは確かに現実だった。
 あの夢は確かに現実感を感じさせる『何か』があった。

 俺達はあの冬の後、確かにどこかで会った気がする。
 
 祐一の予感はやがて確信へと変わる。
 それでも今は、それすらも知る由もなかった。


         4


 その日祐一は、夢を見た。

 一人ぼっちで、電車に乗っている夢。
 窓の外は激しく吹雪き、数メートル先も見えない。
 白い世界に白い雪が舞うその景色を、ただただ見つめていた。

 やがて祐一は、海の見える一軒の駅に降り立った。
 荒れ狂う冬の海がもたらす風は、それだけで体温を奪われそうなほどだった。

 吹雪を伴い猛る海は、黄泉路への入り口にも見えた。
 それでも、そのときの祐一には何も感じられなかった。

 否、この風に吹きさらされ、このまま朽ちるのも悪くないとさえ思えた。
 どれほど立ち続けていたのかは判らない。

 やがて、祐一は立ち続ける気力すら失い、膝をつき、そして倒れた。
 雪の冷たさと、風の冷たさが心地よかった。

 永訣の眠り。
 今の祐一にはその言葉がなんとも魅力的に思えた。

「・・・・・・どうしたのですか?」
 だが、死への眠りをむさぼろうとする祐一に、声をかけた人がいた。
「・・・・・・」
 祐一は答えずに首だけを動かして、その相手を見つめた。
 色素の薄い灰色の髪、
 吹雪に揺れる青いリボン、
 不思議そうに祐一を見つめる一人の少女。
「・・・・・・お腹でも、空かれましたか?」
 自分の言葉に納得したのか、少女は祐一の肩をとり、立ち上がらせる。

 少女の肩を借りて、祐一は歩く。
 いつもなら、軽い洒落でも出てきたかもしれない。

 でもそのときはただ、
 彼女に引かれて歩くだけの、何も無い存在だった・・・


         5


 目覚めは、すこぶる良かった。
 祐一が、ううんと大きく伸びをしようとしたとき、寝息の音に気がついた。

「名雪!?」
 傍らで寝息を立てている名雪の姿に気づき、すこし驚く。
 結局一晩中看病して、そのまま寝てしまったらしかった。
「・・・ごめんな、色々と心配かけて」
 その髪の毛をそっと撫でる。
 こいつはいつもそうだったな、と祐一は思う。
 好きなものに対して純粋なのだ。名雪という少女は。
 猫にアレルギーがあるのに、傷ついた猫を拾ったことがあった。
 自分を拒絶した相手を、どこまでも信じ続けた。

 そして今も、それは変わらない。

「うにゅ・・・ゆういちぃ・・・」
 くすぐったそうに声を上げる名雪。
「朝だぞ、朝ごはん食ってお前は部活だ」
「う・・・ん・・・」
 ふらふらと危なっかしそうに起き上がる名雪。
 名雪を部屋まで送り届けてから、祐一は下に降りた。



 トーストの焼ける匂いと、コーヒーの香り。
 いつもと変わらない、朝の風景。
「おはようございます、祐一さん。体のほうは大丈夫ですか?」
 秋子がいつもの調子で訊いてくる。
「ええ、おかげさまで。心配かけてすみませんでした」
「そうですか、良かったです」
 テーブルに腰掛けた祐一の前で、心底嬉しそうに秋子は微笑んだ。
「うぐ、祐一君、もういいの?」
「祐一〜おはようだお〜」
 あゆと寝ぼけ眼の名雪が顔を見せる。

「ああ、おかげさまでな。なんなら逆立ちしてもいいぞ」
 わざと力瘤をつくる。
「祐一、極端だよ〜」
 寝ていても突っ込みだけは忘れていないようだった。




「あの、秋子さん」
 朝食を終えて、片づけをしようとしている秋子に祐一は訊ねた。
 今日から夏休みだが、名雪は部活、あゆは高校受験のために塾通い。
 今は秋子と祐一だけだった。
 因みに今日秋子は仕事が非番で、今日は一日中家にいると朝食の席で言っていた。
「はい?どうかしましたか?」
「妙なことを訊きますが・・・俺と名雪が、この街以外で会ったことってありましたか?」
「え?」
 皿を洗っていた秋子が、いきなり祐一のほうを振り向いた。
 彼女がこんな反応をすることは珍しい。相当驚いていることが目に見えて解る。
「なにか・・・知っているんですか?」
 祐一は思わず身を乗り出して訊いてみる。
「・・・・・・少し待ってください。片付けてしまいますから」
 そういわれてしまえば、どうしようもない。
 祐一はおとなしく片付くのを待っていた。


         *


 紅茶の香りと、クッキーの香り。
 どっちも秋子の手作りだそうだ。
 だが、食欲をそそるそれらを前にして、秋子は沈痛な面持ちで祐一を見ていた。
「・・・俺は、また誰か傷つけるようなことでもしたんですか?」
 その表情からは、決して楽観的な答えではないことがわかった。

 名雪のように、あゆのように。
 知らずにまた俺は、誰かを傷つけていたというのか。

 祐一の脳裏に自責の念すら伴わせる暗い予感がもたげてくる。

「いいえ・・・そうじゃないんです」
 秋子はそうして首を横に振った。
「これが祐一さんの『求めている答え』なのかはわからないのですが・・・」
 そういって秋子は説明を始める。
「話は、あの冬の日にさかのぼるのです」
 あの冬の日・・・それは祐一にとって忘れようも無いこと。

 あゆの人生を閉ざし、名雪に大きな傷痕を残したあの日。
 だが、祐一は長らく記憶を閉ざしていた。

「あの日の後のことを、祐一さんは覚えていますか?」
「え?」
 唐突に訊かれたことを、祐一は理解できなかった。

「祐一さんがこの街を去った、その直後のことです」
「いいえ・・・」
 そういえば、と思い出してみる。
 あの時俺は廃人のように全てを失っていたような気がする。
 だが、どうやってその後普通の生活に戻れたか・・・その記憶が無かった。

「祐一さんは、あの後しばらく行方不明になっていたのです」
「なんですって?」
 いきなりの言葉に祐一は驚きを隠せなかった。行方不明?

「そしてその後、名雪も祐一さんを探しに行くといって消えました」
「名雪まで!?」
 ということは、あの夢はやはり失った『何か』の記憶の残滓なのか?
 俺と名雪の間の、なにか失われた過去なのか?
 祐一の中に、そんな予感が現れてくる。

「あなた方に何があったのかはわかりません。
 私もすぐにその場に行こうとしたのですが、猛吹雪で道が閉ざされてすぐには無理でした。
 そして一週間後、帰ってきた名雪も、何も覚えていませんでした」
「そんなことが・・・?」
 にわかには信じられない話だった。

 俺だけじゃなく、名雪まで?
 俺の代わりに、7年間もあの日の思い出を持ち続けたあいつまで・・・?
 俺は今度は、何を忘れたんだ・・・?

 その漠然とした不安感だけが、そのときに祐一に残された全てだった。


         6


「あ、祐一」
 その後出かけた商店街の本屋で、祐一は偶然学校帰りの名雪と会った。
「わ、祐一、どこかへ出かけるの?」
 祐一の手に握られていた全国版の時刻表を見つけて、名雪が訊いて来る。
「ああ・・・そうなるか」
 秋子の話の後、祐一はあの夢を自分なりに分析してみていた。
 あの場所に行けば、何かがわかるかも知れない。そう考えて。
 その中で唯一手がかりになりそうなのは駅だった。
あのポストカードの消印と、駅舎。
 これを手がかりにして探そうと思っていた。

「ねえ、祐一」
「ん?」
 名雪が上目遣いに祐一を見つめる。「心配だよ」とその瞳は語っていた。
「・・・久しぶりに、百花屋でも行こうか」
 そんな名雪の頭に手を置く祐一。
 どうして俺達は、いつも相手に心配ばかりかけるのだろうな。
 そんなことを思いながら。


         *


 ひやりとしたクーラーの冷気が、二人を出迎える。
 北の街といえど、夏は猛暑がこの街を包む。
 グラスの中で音を立てて溶ける氷の音が、清涼感を感じさせる。
 シャツを張り付かせるほど汗に濡れた体が、急激に冷やされる感覚はなんとも心地よかった。

「祐一、昨日から様子が変だよ」
 イチゴサンデーにスプーンを入れながら、名雪が問う。
 不安げに訊ねるその声が、何故か祐一の心に痛かった。
「判ってる・・・名雪」
「どうしたの?」
「すまなかった。余計な心配かけて」
「わ、どうしたの祐一、別にそんな謝ることじゃないよ〜」
 祐一の珍しく殊勝な態度に、名雪が全身で驚きを見せた。
「違う。7年前、いやもう8年は前のことだ」
「!?」
 7年前、という言葉に名雪が硬直した。
 それは無理からぬことだった。
 あの日は、二人にとっては決して楽しく話せるようなことではない。
 否、それどころか大きな傷痕を穿り返すような出来事ですらある。
 名雪は押し黙り、祐一の次の言葉を待つ。

「あの日の直後のこと・・・おまえ、覚えているか?」
「え!?」
 今度は名雪は目を丸くして問うてきた。
「今朝、秋子さんから聞いたんだが、あのあとお前、俺を追ったんだよな」
「どうして・・・どうしてそんなことを?」
 驚きと悲しみが入り混じったような表情で名雪が訊いて来る。
 なにか悪いことをしている、と祐一は思う。
 だが、どうしてもこれは訊いておかねばならない。それだけは確かなことだった。
 だからこそ、祐一は訊ねた。
「・・・・・・どこだか、覚えているか?」
「・・・・・・」
 名雪は答えない。
 震える手でスプーンを掴みながら、イチゴサンデーを必死に口へと運んでいた。かちゃかちゃというスプーンの音だけが響く。

 やがてイチゴサンデーが空になる頃、漸く名雪は口を開いた。

「昨日の葉書、今もってる?」
「ん、ああ」
 鞄を開き、クリアケースに入っていた葉書を取り出す。

「これ」
 名雪は消印を指差していた。知らない地名だった。
「私も良く覚えていないんだ。でも、この駅は覚えてる」
 後ろの駅舎の写真を見て、名雪が言った。
「そうか・・・」
「祐一・・・行くの?この場所に」
 俺は頷いた。
「どうも、何か大切なことを忘れている。そんな気がするんだ」
 曖昧に言葉を濁し、祐一は言った。
 それは、思い出したくないのか、それとも思い出せないのかすら解らない。
 それでも、思い出さないわけにはいかない。そんな予感がしていた。

「待って」
 いつに無く強い調子で、名雪は言った。
「お願い・・・私も・・・連れてって」
「名雪」
 名雪が上目遣いに祐一を見つめてくる。
 その瞳は真剣で、祐一は気押されそうになる。

「どうしても、どうしてももう一度、私はここへ行かなきゃならないんだよ」
「?」
 名雪の言葉の真意が解らなかった。
 なんだと?行かねばならない?

「おまえ・・・何か知ってるのか?」
 その問いに横に首を振る名雪。
「解らない・・・解らないんだよ。でも、覚えてる。これだけは」
「覚えてる?」
「うん・・・約束したの。誰に約束したか、覚えてないけど。確かに約束した」

 約束。
 それは二人の中で最も重い響きを持つ言葉。

 あの冬の日、祐一は名雪との約束を果たせずに、街を去った。
 それでも名雪はずっと覚えていて、その約束は祐一が帰ってきて漸く果たされた。
 それまでに、名雪の歩んできた道は辛かった、などという言葉では言い表せまい。
 その苦しみを少しでも分かち合えるなら、そうしてやりたい。
 祐一は心底そう思った。

「わかった・・・一緒に行こう。名雪」
「ありがとう、祐一・・・」



 こうして二人は、奇妙な二人旅に出ることになった。


         7


 駅舎を出ると、もわっとした熱気が二人を襲った。
 駅前のターミナルは、排気ガスを撒き散らしながらバスが入れ替わり立ち代り入ってくる。
 環境保護団体がディーゼルエンジンに噛み付くのもわかるなあ。
 と場違いなことを考えてしまう祐一。
 ポケットから取り出した予定図を見ながら、目的の駅へと行くバスを探す。

「わ、待ってよ祐一ぃ・・・」
 とてとてと名雪が祐一の後をついてくる。
 祐一が歩き、その後ろを名雪がついてくる。
 変わらない、二人のいつもの姿。

 白いノースリーブのワンピースに、薄い青のブラウス。黄色い麦わら帽子。
 こうしていつもと違う格好の名雪を、違う場所で見る。
 そうすると、今まで見えなかったものが見えてくるような気がした。
 見慣れたものの違った側面が見られる。
 それは人生に大きく彩りを添えるものだ。
 こうして、いつもと違う名雪の姿を見られただけでも、価値ある旅かもしれない。
 祐一はそんな気がしていた。

「え〜と、たしか・・・」
 名雪がメモを取り出し、バスの時間と乗り場を確認しようとする。
 例の駅舎は今は廃線になっており、その近くを通るバスで行くことになっていた。
−こっち−
「?」
 不意に誰かに声をかけられた。祐一?そんなわけは無い。
 それはもっと小さな女の子の声だった。

−待っているんだよ・・・ママ−
「!?」
 その言葉から先、記憶が無い。
 気がつけば祐一の手を引いてバスに乗り。
 そのバスが予定と違っていることに気がついて、慌てて下りて。
 そして、セネカと名乗るこの少女と出会ったのだった。


         8


「セネカ・・・ちゃん?」
 いまだ混乱している祐一の横で、名雪がセネカにおずおずと声をかけた。
「そうだよ、ママ」
 セネカは屈託無く笑い、祐一と名雪を見つめる。

「ママとパパは帰ってきてくれたんだよね、セネカのために?」
 俺達は白昼夢を見ているのだろうか・・・?
 そうとさえ祐一は思う。
 しかしこれは始まりでしかなかった。

 二人の、あの冬の日の約束の・・・・・・



                       to be continued.......


次回予告

 水瀬名雪

 私達の娘というセネカちゃん。
 どこか私達に似ていて、それでも違う存在。

 子供を持つとは、こうかもしれないと思った。
 やがて私達は約束の場所へとたどり着いて。

 そこで、手紙の主に出会った。

 次回" Kanon" side story "Nayuki's discipline time"

     Episode 2:My hope for you

 それは、遠い日の願い。

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