" Kanon" side story "DEPART FROM THIS WORLD"


      第V章 霧の浅瀬





   −僕の目に、君は気高さと親切に満ちあふれて映る。
     水を与える力を持った王者よ、あらゆる僕の友が、
      あらゆる僕の敵が、君を通って僕の方へ向かってくる。
       ために僕には、最早1人の敵もこの世に存在しなくなる−

                −アントワーヌ・ド・サンーテグジュベリ/『人間の土地』−







         1


 悲しい夢を見た気がする。

 天野美汐は、ベッドの中で不意に目を覚ました。

「・・・・・・・・」

 枕元の時計は、夜中の1時を指していた。何故こんな時間に目覚めたのか判らない。
 ただ、とてつもなく悲しい何かが起こった。
 そんな気がしていた。

「あれは・・・?」
 起き上がり、カーテンを開けると、遠くにものみの丘が見えた。
 そして巨大な光の柱がそびえ立つ姿が見えた。

「泣いている・・・・・・・?」
 自分の手に落ちる雫を見て、初めて美汐は泣いていることに気がついた。

 理由は判らない。
 ただ、とてつもなく悲しい何かが起きている。その気持ちは確信へと変わった。

「もう、戻らないんですね・・・真琴も、あの子も・・・・」
 泣き崩れる美汐。

 真琴を構成していたソウラスの一部が、美汐に流れ込んだことなど知る由もない。
 それでも、本当の意味で真琴はいないということが分かった。


 零れ落ちる涙は止めどもなく流れ続ける。

 だが、彼女は知らない。

 真琴の死は、始まりに過ぎないことを。

 真琴を呼んだ祐一たちの本当の戦いは、これからなのだと・・・・・・



         2


・・・・・・どれほどの時間泣き続けていたのだろう?

 涙も枯れ果て、喉が痛くて声を出すことも辛い。
 時を忘れるほどの苦しみと悔恨の中で、祐一はそんなことを思った。
 閉ざされていた瞳を開け、上を見上げる。

「・・・大丈夫?」
 穏やかな誰何の声が不思議に心地よかった。

 不意に、刃を握っていた手の痛みが薄れていることに気がついた。

「名雪・・・」
 気がつかない間に、名雪のハンカチが手に巻かれていた。

「あとで、ちゃんと手当てしないとね」
 夜空の色にも似た濃紺の髪を輝く風になびかせ、
 祐一の体を抱き留めながら、名雪は祐一の髪をそっと撫でる。

「名雪・・・・・・どうしてお前は優しいんだ?」
 そんな言葉が祐一の口をついて出る。

「俺はこの手で真琴を二度も殺した・・・・・・
 俺は自分を好いてくれる人間をこの手で殺した。
・・・なのに何故・・・お前は優しいんだ・・・・・・?」

「・・・殺したっていうのは、違うよ」
 名雪が空を見上げた。

 空は黄昏の斜光のように紅く輝いていた。ここは黄昏の場所なのだ。
 空のその輝きが、この場所の役割に妙に適したように見えた。

「お母さんから聞いたよ。
 ここがどんなところなのか、何のために私達がここに来たのか」
「・・・・・・何のために?」

「そう。私達の誰かがこの世界の番人にならなきゃいけないって事。そして・・・・・・」


−ゴウッ!−

 刹那、一際強い風が吹いた。
「何だ?」
「!?」
 そして祐一と名雪は見た。

 巨大な狐の彫像の前に立つ一人の影のような漆黒の存在を。

「あなたは・・・・・・まさか!?」
 名雪が目を丸くして立ちつくす。

 彼は闇を切り取ったかのような黒のローブを全身に纏っていた。
 顔も闇に覆われ、フードの奥の顔を伺い知ることは出来ない。


         3


「・・・・・・私はCOS-MOS。この地の番人」
 闇の底から響く風のような声で、彼は言う。

「COS-MOS?まさか、お前なのか?真琴にあれを与えたのはおまえなのか!?」
 祐一が立ち上がり、COS-MOSと名乗った男と向かい合った。

「そうだ・・・祐一君、君には謝罪と感謝の言葉を送らねばならないな」
「何だって?」
 この男は一体何を言おうとしているのだろう?祐一は更に問うた。

「真琴というあの魂のことだ。
・・・彼女はあのままでは現世に迷い出て、災厄をもたらす物の怪となってしまった。
 それをよくぞ討ってくれた。それに感謝したい・・・
・・・そして、親しい者を討たせてしまった事に関して・・・
・・・心から謝罪したい」

 COS-MOSの顔を伺い知ることは出来なかったが、その言葉からは嘘偽りを感じ取ることはなかった。
 本当にこのCOS-MOSなる人物はこの事態を引き起こしたことを悔いていた。


「お父さん・・・なんでしょう?」
 名雪がおずおずと切り出した。

「何?」
 その言葉に祐一が名雪とCOS-MOSを見比べる。

 名雪の父は名雪が物心つく前に死んだという話は聞いていたが・・・?

「名雪・・・それに祐一君。
 お前達を巻き込んでしまったことは心から申し訳ないと思う・・・」

「待ってくれ!COS-MOS、一体それはどういうことなんだ?
 あんたが名雪の父親って話は本当なのか?」
 話が飲み込めない祐一が訊ねた。

「名雪の言った話は本当だよ。
 君達の世界で18年ほど前、私はこの地に呼ばれてこの世界を守る者となった。
 名前を捨て、妻子を捨ててね・・・・・・」
 狐を見上げ、COS-MOSが感慨深げに呟く。

「どうしようも・・・なかったのか?」
 祐一が微かな逡巡を見せながらも訊ねた。

「私がならねばならなかったのだ。
・・・そうしなければここに集まった魂が悪霊となり、世界を滅ぼすのだから。
 この地はいわば悪霊の分解装置だ。
 死してなお死を認めない者を死に至らしめ、ソウラスに戻すための。
 それがなくなれば、どうなるかは解るだろう?」

「お父さん・・・」
 名雪がCOS-MOSを見つめる。悲哀に満ちあふれた潤んだ瞳を向けながら・・・

「そんな顔をするな、名雪。別にこうなったことを私は後悔していない。
 それに、君達にこの宿命を引き継がせねばならないことのほうが辛い・・・」
 名雪の肩に手を置き、穏やかな声でCOS-MOSは言った。

「宿命を引き継がせる?」
 祐一が怪訝な顔で訊いた。


 COS-MOSは名雪から離れ、2人と向かい合うような形になった。

 発せられる雰囲気が緊張感を帯びたそれに変わる。

 伺い知れないCOS-MOSの表情。
 それが険しさを増しているのが見えずとも2人には解った。

「お母さんから聞いた。
 今、この世界は番人であるお父さんが力を失い始めている。
 だから、お父さんが押さえていた悪霊達が私達の世界に出て来つつあるんだって」
「何だって?」
 事情を知らない祐一が名雪の独白に驚きを見せた。

「舞さん、あの人も悪霊に憑依されて暴走したのを見たから」
「おい、それはどういうことなんだ!?舞はどうなった!?」
 祐一が名雪の肩を掴みながら叫ぶ。

「大丈夫。お母さんが止めてくれた。舞さんは大丈夫だよ」

「秋子さんが・・・?」

「お母さんはあっちの世界でここを守る祭祀なんだって。その力を使って止めてくれたんだよ」

「そんなことが・・・」
 ということは秋子さんはCOS-MOSの宿命や今いる世界について最初から知っている。

 そしてなおかつそれらを全て受け入れているということか。

 彼女の微笑みの後ろに隠された人知れない彼女の悲哀。
 そして愛情が微かながら理解できたような気がしていた。

「秋子は強い女だ・・・私がいなくとも名雪を育て上げたのだから」
「そうだな・・・あの人は本当に強い人だ。だからいつも優しい」
 祐一が頷いた。



「一つ訊いても良いか?祐一君、名雪」
 COS-MOSが2人を見回しながら訊ねた。

「何です?」
「何、お父さん?」

「君達には『覚悟』はあるか?」
「覚悟?」
 首を傾げる祐一。

「それは、私達がこの世界の『番人』を引き継ぐ覚悟があるか?ってこと?」
 名雪が言う。頷くCOS-MOS。

「冗談だろ!何で俺達がそんなことに手を貸さなきゃならないんだ!?」
 祐一が激昂し、COS-MOSの両肩を掴む。

「では・・・君は君の星がここから溢れ出した『死』で覆われてもいいというのか?」
「それは・・・」
 言われて祐一が言葉に詰まる。

 もし彼等が使命を放棄したら世界は悪霊で埋め尽くされるということになる。
 そして彼等の世界にはそれらを退ける力はない。

「でも・・・それじゃあやっぱり駄目だと思うよ」
 名雪がCOS-MOSを見据えて言う。名雪を見るCOS-MOS、2人の視線がぶつかる。

「それだったら、お父さんとお母さんみたいに一生離ればなれになるんでしょう?
 私は・・・そんなの嫌だ」

「ならばどうする?」
 COS-MOSが問う。全ての宿命を肯定した者の重い呟き。

「それは・・・」
 たじろぐ名雪。

「探す!!」
 彼等を取り巻く重い空気を切り裂くかのように祐一は叫んだ。

 驚きに目を丸くする名雪。探してどうすると雰囲気で問うCOS-MOS。

「悪霊も拡散させない!そんなくだらない使命も引き継がない!いや、引き継がせない!!」
 祐一がCOS-MOSを睨み付ける。

「お母さんの願いも『これ』を終わらせることだった。だから、止める」
 名雪が祐一の横に立った。

 2人の瞳は決意に満ちあふれ、真摯な意志を込めた視線がCOS-MOSをとらえる。

「・・・・・・引くつもりはないか。それも無理からぬ事だ。
 それを貫くならそれもいいだろう。
 だが忘れるな『番人』の後継者になる資格を有しているのは君達だけではない」
 COS-MOSの姿が透け始める。
 
 彼の黒いローブが徐々に光を通し始め、周りの景色に同化していくかのようにその姿が薄れ、消えてゆく。

「どういうことだ!」

「ここに来たのは君だけではないということだ。祐一君」
「何だと・・・?」
 その言葉にあゆ、舞、佐祐理の姿が祐一の脳裏をよぎった。

「宿命から解き放たれようと目指すならそれもいいだろう。
 しかし彼女たちの決断如何によっては君の行為も無駄になるかもしれない」

「ふざけるな!無駄になんかさせない!これ以上宿命のために散る命なんか作らせない!!」

「ならば成し得てみたまえ・・・私はサザンクロスで待つ」
 やがてCOS-MOSの姿が完全に消え失せ、気配すらもその場には残らない。


 暫し立ちつくしていた祐一は、決意と共に顔を上げ、拳を握りしめる。

「・・・俺はいく、お前は戻れ。
 これ以上・・・俺にかかわって傷つくのは止めろ」
 行けば今度は名雪まで失うかもしれない。そんなのはごめんだった。

「いやだよ」
 名雪は視線を祐一の顔に向けた。向かい合う茶色と蒼の瞳。

「祐一がいくなら、私は何処までも行くよ。
・・・・・・お母さんの悲しみは、もう繰り返したくないから。
 それに、祐一が守ってくれるよ、ね」
 口元を綻ばせ、名雪は言った。

「・・・・・・そうだな、お前まで守れなかったら、真琴に悪い」
 そして祐一は名雪の手を取る。

 真琴も名雪を守れといったのだ。
 そうだ、俺は守るのだ。
 これから、誰も悲しませないために。

 祐一は思った。


「うん、ふぁいと、だよ」
 名雪はそれを握り返し、頷いた。


 斯くて2人は一つの終わりの場所に背を向け、
 全てを終わらせるという決意を胸に、
 最後の場所へと歩き始めた・・・・・


         4


 ・・・・・・そして物語は秋子、CHAOS、舞、佐祐理の所へと進む。

 秋子とCHAOSと共に、舞と佐祐理はあゆを探していた。
 死者の魂が最も多く還りつくというサザンクロスに向かう列車。
 そこには彼女たち以外誰一人として乗る者はいなかった。
 時折響く汽笛の音のみが、その場所に響く音だった。
 虚空の闇の中にただ一筋走る光の道。その上を走る列車。

「・・・・・・」
 不意に佐祐理が舞を見つめた。それに気づいた舞が佐祐理を見つめ返す。

「どうかした?」
 心配げに舞が聞き返す。

「う、ううん。佐祐理は大丈夫」
 佐祐理は慌てて首を振る。

 それでも心の中には確かに「不安」が首をもたげていた。
 舞はそれを敏感に感じ取っているのだろう。

「あなたにも・・・何かが起こるのかもしれませんね」
 そんな佐祐理の様子を見つめながら、秋子がぽつりと言った。

「秋子さん?」
 佐祐理が怪訝な顔を見せる。しかし秋子は答えず、窓の外に視線を移す。

「これは・・・霧?」
 いつの間にか窓の外は乳白色の世界に包まれ、舞の言ったとおり霧の中を走っているかのようだった。

「そういえば・・・佐祐理さん」
 と佐祐理を見つめるCHAOS。

「はい?なんでしょう?」
 ぼぉっとしていたところに急に声をかけられたせいで多少声が裏返る。

「少々失礼な問いかもしれませぬが・・・」
「はい?別に佐祐理は構いませんよ」
 いささか逡巡したCHAOSだったが、佐祐理の笑顔に後押しされて口を開く。

「あなたは・・・『自分を認めていない』のですか?」
「・・・・・・どういうことでしょうか?」
 表面上冷静さを装ってこそいたものの、佐祐理の心には明らかな動揺があった。

 CHAOSというこの男は感づいているのだ、佐祐理の心の傷跡に。

「いえ・・・何となくそう思っただけです。不躾な質問をして申し訳ありませんでしたね」
 後半のCHAOSの謝罪は佐祐理の耳には届いていなかった。
 自分でも久しく忘れていた記憶が微かに甦る。

「一弥・・・」
 その小さな呟きが、その傷跡を呼び込むことになることを、今だ彼女は知らない。

−まもなく、エリダヌス、エリダヌス・・・・・・−

 車内のスピーカーから無味乾燥とした声のアナウンスが響く。
 目を凝らして見れば、エリダヌスの水面が辛うじて見えた。
 エリダヌスの側を併走しているのだろう。
 古来より河は生と死の境の象徴だった。
 日本にある三途の川、ギリシャにあるアケロン河・・・

 生あるものと死せるものを分かつ不変の真理。
 それを太古の人々は河に見立て、死を理解してきた。

 死に満たされた場所にあるこの河は何を意味しているというのか?
 そんなことを佐祐理は考えていた。

−・・・・・・ん・・・−

 彼女が「その声」を聞いたのもその時だった。

「ほえ?何か言いましたか?」
 佐祐理が他の三人を見るがそろって首を横に振る。

−ね・・・・さ・・・ん−

 再びその声が届く。幻聴かとも思う。

 しかしそう考えるにはあまりにもその声はリアルだった。
「佐祐理を呼んでいる」という意志が込められているように聞こえていた。

「・・・誰か・・・?」
 佐祐理は思わず椅子から立ち上がり、車両の中を見回す。

「佐祐理?」
 怪訝な表情で佐祐理を見つめる舞。その瞬間だった。

「誰だ!!」
 舞が剣を抜き放つ。

「舞さん!?」
 秋子が驚きのあまり立ち上がった。

「何かがいる・・・味方とは思えない・・・」
 警戒を解かずに舞が言う。

「ここで敵となる存在がいる・・・あり得ない話です」
 秋子が言った。

「どういうことですか?」
 佐祐理が問う。

「敵意とは『生きよう』とするものが自分の存在に害悪をもたらすものに対して成し得る感情です。
 ここにいるものはすでに命はない。戦う意志を持つはずはないのです」
 CHAOSが答えた。

「なら、私に取り付いた『あれ』は?」
 剣を構えたまま舞が問う。

「それは舞さん、あなたが命を持っているからです。
 彼等には『復活したい』という意志のみがありました。
 それがあなたの心と融合してあのような行為に出たのです。
 死せるものは生きるものの認識なしに世界に干渉することはできないのですから・・・・・・」
「・・・・・・」
 無言で舞は剣を収めた。

−姉さん・・・−

「!?」
 その声は今度ははっきりと佐祐理の耳に届いた。

 否、耳に届くどころか、脳髄に直接響くかのような声だった。

「まさ・・・か・・・?」
 そして真に佐祐理を驚愕させたのはその声の主だった。

 佐祐理はその声にしかと聞き覚えがあった。知らないはずはなかった。
 二度と聴くことの出来ないはずの声だった。
 だがここは死の世界でもあった・・・
 そう、あり得ないはずの声が聞こえることもあるのだ。
 そう佐祐理は何故か納得していた。
 振り返る。

「か・・・ず・・・や・・・・」
 佐祐理と同じ、亜麻色の髪と紅い瞳を持つ少年。現世には最早いない存在。倉田一弥。

−姉さん・・・−
 一弥が手をかざす。

 彼が振った手の軌跡は空間を切り裂き、光があふれる穴を空中に生み出す。

「一弥・・・」
 差し出された一弥の手を佐祐理は握る。

「佐祐理!!お前は・・・・・・!?」
 いち早く佐祐理の異変に気がついた舞が佐祐理に駆け寄ろうとする。
 舞の研ぎ澄まされた感覚は一弥を知覚していた。

−生憎だけど・・・しばらく姉さんを借りるよ−
 一弥が再び手をかざす。

「何だって!?何をする!?」
 舞が身構えた。

−何もしないさ・・・・・・−
 彼らの網膜を焼くような閃光。
 舞も佐祐理も、意識を保つことすら出来なかった・・・・・・


         5


 そして佐祐理は、異なる世界にいた。

 青々と実った畑。
 作物の葉が風に揺れ、天高く輝く真夏の太陽が世界を照らしていた。
 頬を撫でる風は心地よい涼しさを感じさせ、遠くでは雲雀の鳴く声が響いていた。
 世界は光に満ちあふれ、
 その中で戯れる子供達を祝福しているかの如く穏やかなたたずまいを見せていた。

「・・・・・・・」

 その中で佐祐理は桃色のワンピースを身に纏い、
 麦藁で編まれた帽子を被り、
 プラスチックの水鉄砲を携え、
 泥だらけのサンダルを履きながら畑の真ん中に立っていた。

−『佐祐理』は何をしているの?−

 自らに佐祐理は問いかける。その答えに答えるものは誰もいない。
 ただ何か、とても大切なことを忘れているような気がしてならなかった。
 だのにそれを思い出すことが出来ない。
 もどかしさは焦りを呼び、徐々に佐祐理を苛立たせる。

「どうしたの、姉さん?」
 その時、佐祐理の足下からおずおずと誰何する少年の声が聞こえた。

 彼女と同じ瞳と髪を持つ少年が、不安げに佐祐理を見上げていた。

「え・・・一弥・・・?」
 一弥を見つめる佐祐理の表情がこわばったものになる。

 さながらあり得ないはずのものを見たかのように・・・・・・

「ひどいよ姉さん。今日は一日中僕と遊んでくれるって言ったのに・・・」
 頬を膨らませ、一弥がむくれ顔を見せた。

「え・・・あ、うん。そうだったよね。ごめんね、一弥」
 そうだ、と何故か納得できた。

 今自分はここで一弥と遊ぶためにここにいるのだ。
 何を迷うことがあったのだろう。
 今日は一弥とずっと遊ぶのだ。
 得られなかったはずのものを取り返すのだ。
 ・・・そのためにここにいるんだ。佐祐理は心の底からそう思った。

「本当?」
 やや一弥が疑わしげに佐祐理を見る。

「本当だよ、一弥」
 両手を合わせて謝る佐祐理。

「それなら・・・・・・えいっ!」
「ひゃっ!?」
 突如佐祐理の顔に何か冷たいものがかかる。

「あははっ、ひっかかった!ひっかかった!」
 目をしばたかせる佐祐理の前で、一弥が自分の水鉄砲を持ったまま笑っていた。

「悔しかったら、僕に当てなよっ!!」
 そう言って一弥が駆けていく。

「あっ・・・こらーっ!一弥ーっ!不意打ちは卑怯だよっ!」
 その後を追って走り出す佐祐理。

「ははっ!捕まえてみなよ、姉さん!」
 走り出す一弥。

 どこまでも無邪気に、二人は夏の日を駆け抜けていった・・・


         6


・・・・・・どれほどの間、遊び続けていたのだろうか?

「はは・・・さすが、姉さんだ」
 木の根本にへたりこんだ一弥が、汗を拭いながら佐祐理を見つめていた。

「ふふ、だから言ったでしょ。こう見えてもお姉さんは運動神経いいんだから」
 得意げに佐祐理は笑い、どこからかラムネの瓶を取り出して一弥に手渡した。

 真夏の太陽にラムネの瓶をかざす一弥。
 それを見つめてみる。

 瓶の青さ、中で弾ける炭酸の泡とそれを透かしてみせる太陽の光。
 無数の泡は瓶の中を巡る。
 ある時は瓶の縁に貼り付き、またあるときは瓶の中を悠々と動き回る
 ・・・それはさながら宇宙に遍く星達のように。

「どうしたの・・・?」
「あ、いや・・・開け方が解らない」
 そう言って一弥が頭を掻いた。

「もう、しょうがないなあ」
 口ではそう言いながらも、佐祐理は笑って答える。

「これはね、こうやるんだよ」
 紅いキャップを瓶の上に載せ、力を加える。

−ぷしゅっ!!−

「わ・・・わっ!?」
 瓶の口から泡があふれ、一弥の腕に白い泡があふれかえった。

「あはは・・・引っかかった」
 くすくすと佐祐理が笑う。

「酷いよ姉さん・・・」
 泡まみれになった手を佐祐理から差し出されたハンカチで拭いながら、一弥が半分涙声で抗議した。

「お返しだよ、一弥♪」
 そして佐祐理は微笑んだ。



 ごろり、と2人は草原に仰向けに寝ころんだ。

 天高く雲は流れ、遥か天の彼方に吹く風が雲の形を変えていく。
 千切れ、繋がり、ほんの僅かな時の移ろいの中で幾重にも姿を変えゆく雲の流れ。
 その切れ間から届く真夏の太陽の光。

「・・・・・・ねえ、一弥」
 微かに陽光のまぶしさに目を細め、佐祐理が問うた。

「なあに、姉さん」
「一弥は・・・ずっとここにいたの?」

「・・・・・・・」
 押し黙る一弥。

「ここはいったいどこなの?」
 再度問う佐祐理。

「・・・やっぱり、姉さんにはかなわないや」
 照れたように頭を掻き、一弥が上体を起こした。

「知ってたんだね、最初から」
「・・・ええ」
 やや伏し目がちに佐祐理は頷いた。

「でも、それならここが何であるか、姉さんはもう知っているんじゃない?
 知らないはずはないよ?」

「知って・・・いるわ。
 だってここは・・・佐祐理が、夢の中で一弥と遊んだ所だから・・・」

 知らないはずはなかった。

 真夏の太陽の下、一弥と水鉄砲で遊び、駄菓子を食べ、時を忘れて遊び尽くす。
・・・それは佐祐理の唯一の、そして二度とかなわない夢であるのだから。

「ここは・・・佐祐理の心の中、だよね」
「まあ、半分はそうかな」

「半分?」
 佐祐理が怪訝な顔で訊ねる。

 やや表情を曇らせ、一弥は空を見上げる。天を駆ける一筋の飛行機雲が見えた。

「魂・・・いや、幽霊っていうのは、あの飛行機雲のようなものなんだ」
 飛行機雲に視線を合わせ、一弥は言う。

「飛行機雲?」
「そうさ。飛行機が空を飛ぶときにその衝撃で大気中の水分が凝結し、あのようなものを形作る。
 でもそれはほんの一時的なものだ。
 やがてその場の大気は元に戻り、はじめからなかったかのように消え去る」

「肉体という飛行機がソウラスを形作り、その残滓という飛行機雲が、今の一弥なの?」

「そういうことさ。僕はいわば倉田一弥という存在の最後の亡霊に過ぎない・・・・・・
 もっと正確に言うなら、倉田一弥の『意識の欠片』とでも言えばいいのかもしれない。
 要するに残りかすさ」
 そうして一弥は佐祐理を見る。

「それがここに来た『佐祐理』の精神と融合して、この世界を作り出した?」

−死せるものは生きるものの認識なしに世界に干渉することはできない−

 先ほどの言葉が脳裏によぎる。

 つまりは『佐祐理の一弥に対する想い』
 それがこの世界に微かに残っていた一弥のソウラスを呼び寄せた。
 そして佐祐理の中で展開された『夢』なのだ。
 今、佐祐理は夢を見ているのだ。

「もっというなら、佐祐理の中に入った一弥の魂が見せる夢」
「あたりだよ・・・姉さん」

−ごうっ−

「これは!?」
 一弥が手を振るやいなや、辺りの景色の全てが消え失せていく。

 否、本来の姿に戻ろうとしているのか?
 欺瞞の青空は白く覆われた雲に、真夏の空気は白い霧へ、緑の草原は冷たい水の流れへと変容してゆく。

「満足したからさ。姉さんがね。もう、この世界は必要ない」
「どういうこと?」

「姉さんは自分の事を『佐祐理』と呼んでいた。その理由は解るだろう?」
「ええ・・・・・・」

 解らないわけはなかった。
 自分の過ちが一弥を死なせてしまった。
 だからこそそんな自分が認められなかった。
 それで自分は自分でないような感覚に捕らわれてしまったのだから。

「じゃあ、姉さんは何を『求めて』いたんだい?」

「それは・・・一弥に赦してもらうこと。
 佐祐理の間違いで一弥の命を消してしまったことを謝ること!!」
 泣きながら佐祐理は叫ぶ。

「そうだね・・・苦しいかい?自分の過去の過ちと向き合うことは?」

「苦しい!・・・・・・苦しいよ・・・ずっと苦しんでたんだよ・・・?
 どうすれば一弥に赦してもらえるか・・・
 佐祐理は幸せになる資格なんかない・・・どうやってこの罪を償えばいいのか!
・・・言ってよ・・・佐祐理を断罪して・・・一弥」
 佐祐理が膝をつき、その両手で冷たい水に満たされた川底を掴む。

 こぼれ落ちる涙は大河に混じり、滔々たるエリダヌスの流れの一滴となってゆく。

「確かに一弥の意志である僕が今ここで何かを言えば、
 姉さんはその言葉がどうあれその通りに行動するだろうね。
 その言葉が救済であれ、断罪であれ、ね」

「言って・・・どんな罰でも受ける。何を失ってもいい」
 嗚咽混じりの声で、佐祐理は絞り出すように言葉を発する。

「だけど、それは無駄なことだよ。姉さん」
「え・・・?」
 涙で濡れた顔をあげ、佐祐理は一弥を見つめる。

「知ってのとおり、僕は倉田一弥本人じゃない。
 倉田一弥のソウラスはもうほとんどが分解して、
 僕を構成しているのはほんの一握りにも満たない。
・・・つまり『一弥の意志』で姉さんに答えを与えることは出来ない。
・・・姉さんを処断出来る者は、もう現世にも彼岸にもいないんだよ」
 表情を殺し、一弥は淡々と言う。

「そんな・・・」

「でも、僕は倉田一弥の精神の残滓と、倉田佐祐理の精神が生み出した存在だ。
 だから姉さんの求める『本当の幸せ』は知っている」

「本当の・・・幸せ?」
 涙を拭い、佐祐理が尋ねた。


         7


「僕は姉さんの優しさだ」
 こともなげに一弥は言った。

「私の・・・・・・優しさ?」

「ヒトが自分の行いに苦しむということは、それは自分に良心がある証。
 傷ついたと感じる心があるという事は、他者を慈しむことが出来るということなんだ」
 一弥は微笑む。

「姉さんは倉田一弥の赦しが欲しい、そのためには何を犠牲にしてもいいといった。
 でも、それは姉さんの真意じゃない」

「真意じゃない・・・?」
「仮に僕が断罪を下して、ここで姉さんを消滅させたとする。
 それで姉さんは何の憂いもなく消えることができるかい?」

「それは・・・」
 出来る、と言おうとした。

 だがその気持ちとは裏腹に、佐祐理の唇は言葉を紡いでいた。

「できない・・・舞が哀しむから、祐一さんが悲しむから。
・・・私達を助けてくれた秋子さんに申し訳がないから」

「だろう?姉さんには他者の悲しみを理解することが出来る。
 他人に申し訳ないと思うことが出来る。
 ならば生きていくことに、一体何の憂いがあるというんだい?
 今の人生が幸せでないというのなら、姉さんの幸せはいったいどこにあるというんだい?」

「佐祐理の・・・幸せ?でも、そうしたら、一弥は!?」

「酷な話だろうけどね、さっきも言ったとおり倉田一弥はもうどこにもいない。
 死んでしまった人間はその時点で世界からデリートされてしまう。
 魂もいずれはソウラスとなり砕け散る。
 意志を継ぐとかよく言うけどね、そんなことはあり得ないんだよ。
 それらは全て、過去にその人間と関わった人が、
 その人との関わりの中で生み出した『自分の意志』なんだ。
 死者を引き合いに出すのは単なる言い訳かこじつけでしかない」

「それなら・・・一体」

「簡単なことさ」
 惑う佐祐理の両肩を掴む。見つめ合う2人の瞳。

「全ては過去のこと。『過去は変えようがない』のさ。
 だからどんなに後悔したとしても、それは最早過ぎ去ったこと。
『気にしても仕方がない』んだよ」

「・・・それなら一弥は『あなたの中にいる一弥』はどうなるの?
 確かにもう一弥のソウラスは考える意志を持っていないかもしれない。
 でも・・・」

「たしかにね。
 でも、それなら姉さんは『本当の意味で』倉田一弥の魂を解放・・・・・・
 ・・・いや救済することは永久に出来なくなるよ」

「え・・・?」
 困惑する佐祐理から手を離し、一弥は分厚い霧に満たされた世界に視線を移す。

「姉さんが倉田一弥の事を思う気持ち。それは姉さんの優しさだ。そう言ったね?」
 頷く佐祐理。

「それで苦しむということは、優しさのベクトルが向きを誤っているということなのさ。
・・・その向きを『一弥のことに拘らず』姉さんの今の大切な人達に向けること
・・・・・・そのための勇気。それが姉さんの求める『本当の幸せ』なのさ」

「一弥・・・・・・」



「フフ・・・」
 微笑むと同時にゆらり、と一弥の体が揺らいだ。

 一弥の体もまた消え、本来あるべき姿へと戻ろうとしているのだろう。
 そして佐祐理も目覚め、夢のことなど忘れて、再び己の時間を紡ぎ始める。
 つかの間の夢は、もう終わろうとしていた。

「一弥・・・そのことを伝えるために、ここに姿を見せてくれたの?」
 一弥の消滅は伝えるべき事を全て伝え、役目を終えたからなのだ。

 佐祐理にはそれが良く解った。

「そうだね。倉田一弥の最後の意志は、姉さんに幸せになってもらうこと。
 苦しむことではなく、ね」

「なら、ごめんねじゃなく・・・ありがとう」
 なぜだろう?不思議と心地よかった。

 まるで全身を遍く覆っていた氷が全て溶かされたかのような快感があった。
 これほど心の底から笑えたことが、今までどれほどあったのだろうか?

「フフフ・・・ああ、そういえば最後に渡しておくものがあるんだ」
 一弥はそう言ってハートと翼をあしらったクリスタルがはめ込まれた一振りのロッドを佐祐理に手渡した。

「これは?」

「倉田一弥のソウラスを集めたものさ。彼の魂はもうない。
 でもそれはいわば生きた証、出来れば姉さんが持ってくれた方がいい。
 本物の倉田一弥ならそう言うと思う」

「魔法の杖・・・か。これからは魔法少女でもやりますか。
 魔法少女は、夢と笑いを振りまいてみんなを幸せにするものですよ、ね」
 そう言って佐祐理は再び微笑む。

「ああ、期待しているよ・・・・・・・・・」
 一弥の姿はやがて光を通す透明体となり、その姿は徐々に薄れていく。

 やがて一弥の姿が消え失せ、佐祐理はその場に背を向ける。

 そして佐祐理は歩き出す。

 今度こそ、大切なものを守り抜くために・・・


         8


−ただいまエリダヌスを発車しました、次は、終点、サザンクロス、サザンクロス・・・・・・−
「う・・・?」
 うっすらと目を開けると、そこはさっきの列車の中だった。

 どうやらいつの間にか眠りに落ちていたらしかった。

「大丈夫ですか?」
 隣に座る秋子が心配げに訊いて来る。

「はえ?・・・・ええ、体はもうばっちりです。さすが秋子さんですね」
「そういう意味じゃない、何か悪い夢でも見てた?」
 向かいの舞が言う。

「え?そういえば・・・・・・・」
 記憶が定かではない上に、夢の内容はえらくあやふやに思えた。

 確かに何か辛い思いをしていたような気がする。
 でも、それだけではなかった気がする。

「佐祐理、いきなり立ち上がったと思ったら、かずやって言って倒れた」
 舞が状況を説明した。

「一弥・・・そうか」
 それで夢の記憶と現実の記憶が重なる。
 一弥に呼ばれた後、一弥の魂が自分の中に入り、あの夢を見ていたということなのだろう。
 佐祐理はそう納得できた。

「佐祐理・・・その杖は?」
 いつの間にか佐祐理の横に立てかけてあった、クリスタルをはめ込んだロッドを見て舞が言う。

−姉さん−

「・・・・・・・・!?」
 どこかで一弥の声が聞こえたような気がした。
 様々な思いが佐祐理の心の中を駆け巡る。

「佐祐理?」
 
 頬を伝う涙。悲しみと喜びが胸の中を駆け巡り、心をかき乱す。

「・・・・・・一弥からの、贈り物かな」
 あれは夢であり、夢ではなかった。

 そして、言葉には出来ない『大切な何か』を得ていることはわかった。
 だからこそ佐祐理は微笑む。

「よくわからない・・・でも、よかった。佐祐理が笑ってくれるなら」

「うん。色々あったけど佐祐理は・・・ううん『私』は大丈夫」
 彼女は気がついていただろうか、ようやく自分自身を認めることが出来たことに。

「そうか・・・佐祐理、何か変わった」
 舞が佐祐理を見つめ、言う。

「そうだね・・・変わったかもしれない」
 佐祐理は答える。

「上手く言えないけど・・・前より、ずっといい」
 やや照れたように舞は言った。

「ありがと、舞」
「うん、そうだね」


 最後に佐祐理は一度だけ振り返る。

 そこには変わらず流れ続ける、エリダヌスの大河。

 白い霧に向かって、彼女は確かに言った。

−ありがとう・・・私の呪縛を解いてくれて−

                      TO BE CONTINUED......

次回予告

死と生の狭間を彷徨し続けた少女、あゆ。
 彼女の強い想いは多くの人を救った。

 それは、私、川澄舞には関係の無いことだったけど、
 祐一を救ってくれたなら、それは礼を言うことだ。

 彼女はサザンクロスにてその始まりとなった存在と出会い、大きな選択を迫られる。
 人が生きるための犠牲・・・・・・即ち人柱となる覚悟があるかと。

 黄泉の世界の意志は、生者をも巻き込み暴走を始める。


 次回、" Kanon" side story "DEPART FROM THIS WORLD"

    第Y章 輝ける命の十字

 でも、私がそうはさせない・・・・・・

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